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さいたま市から見た埼玉高速鉄道
戦後の高度経済成長に伴う東京都心の人口過密によって、至近の現さいたま市域も人口流入が進み、日本で最も人口増加の著しい地域の一つとなった。武蔵野線・埼京線・新幹線・埼玉高速鉄道等の鉄道、東北自動車道・東京外環自動車道・首都高速道路等の高速道路が相次いで開通し、東京都心部への近さから21世紀を迎えても社会増(移住者)が依然続き、市街地の拡大が進んでいる。区画整理事業(一覧)も進んでおり、埼玉スタジアム2002を中心としたみそのウイングシティは計画人口3万人以上の市内最大規模の開発事業となった。2010年から2015年の人口増加率は政令市中で福岡市、仙台市に次いで多い(日本の市の人口順位参照)。また、主要駅周辺部では再開発事業(一覧)が活発化し、高層建築物が増加した。市内で最も高さがある建物はランド・アクシス・タワー(略称:L.A.タワー)(168m)、最も階数が高い建物はライブタワー武蔵浦和(38階)となっている。2001年には戦前(1927年)から数度浮上した合併構想が結実し、さいたま市が発足した(下記)。さいたま新都心には霞が関から政府機関が移転するなど、首都圏における代表的な業務集積地としての一面も見せている。(さいたま市 フレッシュアイペディアより)
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さいたま市から見た大津敏男
1939年(昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨等の一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示する。翌年の1940年(昭和15年)、埼玉県が仲介して大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意。しかし、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなる。11月に大宮町は交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた三橋・大砂土・宮原・日進の4村と合併し、同時に市制施行により大宮市が発足。1943年(昭和18年)には、埼玉県知事の大津敏男が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。(さいたま市 フレッシュアイペディアより)
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さいたま市から見た井沢弥惣兵衛
1728年(享保13年)には、享保の改革の一環として新田開発を進めていた徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、八丁堤を切り開いて見沼溜井を干拓して新田とし(見沼田圃)、それにかわる水源として利根川から見沼代用水(現さいたま市域は見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分流)を開削させた。1732年(享保17年)には見沼代用水西縁から分水する形で高沼用水路が開削され、見沼に続いて鴻沼が干拓された。さらに1731年(享保16年)には、もとの八丁堤があった付近に日本で最古級の閘門式運河である見沼通船堀が開削され、見沼代用水東縁・見沼代用水西縁と芝川をつなぐ内陸水運路となった。(さいたま市 フレッシュアイペディアより)