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クリスマスツリーから見た年中行事
日本では1860年、プロイセン王国の使節オイレンブルクが公館に初めて飾った。1874年には原胤昭(はら たねあき)により築地大学(明治学院の前身)で行われたクリスマス・パーティーに、日本初のサンタクロースとともに登場している。1885年に横浜で開業した明治屋が、1900年に東京銀座へ進出すると、銀座のクリスマス飾りは広く行われるようになり、同じころには、神戸でクリスマス用品の生産が始まった。日本のクリスマス行事は、1928年の朝日新聞紙上で、「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるほど定着していた。太平洋戦争中は影を潜めるが、戦後すぐに復活、1948年には東京駅などのクリスマスツリーが、(当時は国営鉄道であったため)宗教活動ではないかと問題にされ、運輸省が「季節的な装飾のひとつで宗教活動ではない」と釈明するひと悶着もあった。現代の日本においては季節的な装飾として定着している。(クリスマスツリー フレッシュアイペディアより)
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ポリネシアから見た年中行事
ハワイでは、真珠湾攻撃の8時間半後から1944年10月24日まで戒厳令が敷かれ、すべてが軍の管理下となった。オアフ島の土地の30%あまりが軍用地として接収され、住民は身分証明書の携帯が義務付けられた上に日没以降の外出は禁止された。手紙や電話は検閲を受け、英語以外の言語で電話をすることは禁止された。日系人はハワイの人口の40%を占めていたため、僧侶や日本語学校の教師など「危険人物」とみなされた1500人ほどを除いて、アメリカ本土のような強制収容は免れた。しかし、日系人が鞄を持って歩いているだけでスパイと疑われ逮捕されるなど、日系人に対する不信感がハワイに広がっていた。そのため日系人たちは、自身がアメリカ人であることを証明すべく、家庭内にある日本的な物を処分する、餅つきやひな祭り、盆踊りなどの年中行事を取りやめる、洋服を着用し和服の着用をやめるなど日本的な習慣を排除し、さらに日本風の名前から欧米風のファーストネームに改名する者も2,000人を超えた。そして日系二世の若者たちは、米軍に志願することで自身の忠誠心を証明しようとした。ハワイには、日米開戦前から日系人部隊である第100歩兵大隊が存在したが、1943年に米軍が日系人1,500人を募集したところ、ハワイだけで1万人以上の応募があり、そのうち2,700人が入隊を許可され、新たに第442連隊戦闘団が編成された。第100歩兵大隊および第442連隊戦闘団は1943年9月9日のアヴァランチ作戦を皮切りに、主にイタリアやフランスに派遣され、モンテ・カッシーノの戦いやヴォージュ県ブリュイエール(Bruyères)と(Biffontaine)での戦い、ダッハウ強制収容所の解放などに参加した。第442連隊戦闘団に従軍した7,500名のうち、700名が戦死し、700名が手足を失い、1000名が重傷を負った。(ポリネシア フレッシュアイペディアより)
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