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  • 渕正信

    渕正信から見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    その後1974年4月10日に全日本プロレスに入門(理由はジャイアント馬場に憧れていたから。新日本プロレスもすでに旗揚げされていたが、日プロ時代のファンである渕は「馬場さんと猪木さんでは、スターとしては格がまったく違うじゃないですか」と後に語っている)。入門わずか12日で徳島県三好市(旧池田町)四国電力横広場での大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田とハル薗田(薗田一治)と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。渕正信 フレッシュアイペディアより)

  • ブルーノ・サンマルチノ

    ブルーノ・サンマルチノから見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    1968年8月 - 日本プロレスに再来日。8月7日に大阪球場にて馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に再度挑戦。結果は馬場の防衛。8月9日には田園コロシアムにてレイ・スティーブンスと組み、BI砲(馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するが敗退。これがサンマルチノにとってはシングルとタッグを含めて唯一の猪木とのタイトル戦。ブルーノ・サンマルチノ フレッシュアイペディアより)

  • ヒロ・マツダ

    ヒロ・マツダから見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    1964年7月11日、主戦場としていたフロリダのタンパにて、ダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得。以降も同王座を巡り、ホッジとは何度となく対戦した。現地では当初はヒールのポジションだったものの、そのレスリング技術を武器に、日系人や日本人はすべて悪党と見なされていた当時のアメリカ南部において、技巧派のベビーフェイスに転じて活躍。タッグでは日系アメリカ人のデューク・ケオムカをパートナーに、1964年から1965年にかけて、スカル・マーフィー&ブルート・バーナードやフレッド・ブラッシー&ターザン・タイラーなどヒールの強豪チームを下し、フロリダ版のNWA世界タッグ王座を再三獲得した。当時のNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズにも度々挑戦しており、1964年12月10日のジャクソンビルでの試合では60分時間切れ引き分けの戦績を残した。アメリカ修行中のアントニオ猪木ともタッグを組み、1966年1月にテネシーのNWAミッドアメリカ地区にて、エディ・グラハム&サム・スティムボートからテネシー版のNWA世界タッグ王座を奪取している。ヒロ・マツダ フレッシュアイペディアより)

  • クリス・マルコフ

    クリス・マルコフから見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    日本プロレス時代のアントニオ猪木がワールドリーグ戦で初優勝したときの対戦相手として知られる。クリス・マルコフ フレッシュアイペディアより)

  • 木村健悟

    木村健悟から見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    帰国後、藤波辰巳とジュニアヘビー級のタイトルを争い、藤波のライバルとして人気を獲得(木村は坂口の付き人、藤波はアントニオ猪木の付き人であった)。1980年7月2日にはブレット・ハートを破り、藤波の返上で空位となっていたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得。以降、ピート・ロバーツ、藤波、チャボ・ゲレロ、ロン・スターを相手に防衛戦を行い、10月3日にゲレロに敗れるまで戴冠した。木村健悟 フレッシュアイペディアより)

  • グレート小鹿

    グレート小鹿から見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    1970年9月に凱旋帰国。アメリカで名乗っていたグレート小鹿をリングネームに、同月25日開幕のNWAタッグ・リーグ戦に吉村道明と組んで出場した。シリーズ中はジャイアント馬場やアントニオ猪木のパートナーに起用されてメインイベントも務め、ニック・ボックウィンクルやアーニー・ラッドとのシングルマッチではアメリカ仕込みのラフファイトで反則負けとなるなどの活躍を見せた。グレート小鹿 フレッシュアイペディアより)

  • バックブリーカー

    バックブリーカーから見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    ザ・デストロイヤー、アントン・ヘーシンクも使い手。タイガー・ジェット・シンもこの技でアントニオ猪木を破ったことがある(1975年6月26日、NWFヘビー級選手権試合)。かける側の腰にも大きな負担がかかるため、彼らを除いては後述のカナディアン式と並んで主にパワーファイターが使用しており、日本人選手では豊登、坂口征二、中西学、井上雅央、岡林裕二、外国人選手ではアート・トーマス、ビッグ・ジョン・クイン、ビル・ワット、ブラックジャック・マリガンなどが得意技とした。レックス・ルガーはトーチャー・ラック(Torture Rack / 拷問台)の名称で使用していた。ロッカと同じくアルゼンチン出身の星誕期も得意技にしている。バックブリーカー フレッシュアイペディアより)

  • 橋本真也

    橋本真也から見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校(中京商業高等学校 現中京学院大学附属中京高等学校)時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレス(以下「新日本」)に入門する。しかし入門初日に後のライバルである蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした(その頃はお互い打ち解けていない間柄だったので「僕が先に使っていた」、「いや君の前に僕が使っていた」という口調で争っていたと著書に記されている。)。1984年(昭和59年)9月1日に後藤達俊戦でデビューした。橋本真也 フレッシュアイペディアより)

  • NWF

    NWFから見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    しかし1973年に入ると勢力は衰退、縮小していく。同年12月10日に新日本プロレスで行われた世界戦において、第14代王者となっていたパワーズがアントニオ猪木に敗れ王座が日本に渡る。その後もパワーズは1974年3月には猪木を招聘してクリーブランドで世界戦を行うなど、1975年初めまでは同地で興行を行っていた。しかし前年に一時プロレス界から離れていたマルティネスが関わった新団体IWAに吸収されるかたちで、同年半ばまでには事実上活動を停止し消滅状態となった。このIWAも同年中にはスポンサーが離れたこともあり規模を縮小、パワーズが引き継ぎノースカロライナ州でインディー団体として活動を続けた。NWF フレッシュアイペディアより)

  • アーニー・ラッド

    アーニー・ラッドから見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    五大湖地区のNWFでは、日本遠征より帰国後の1970年12月5日、ブルドッグ・ブラワーからNWF北米ヘビー級王座を奪取。1972年6月2日にはワルドー・フォン・エリックを破ってNWF世界ヘビー級王座を獲得。以降もジョニー・パワーズ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、オックス・ベーカーらと抗争を繰り広げた。1974年3月21日にはオハイオ州クリーブランドにて、NWF世界王者としてアメリカに遠征してきたアントニオ猪木に挑戦し、カウンター・キックで1本取るも1-1のタイスコアで奪取失敗。同年10月末、新日本プロレスに来日し、11月1日に札幌で猪木に再挑戦するが王座奪回はならなかった。アーニー・ラッド フレッシュアイペディアより)

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