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その時歴史が動いた (漫画)から見たイタイイタイ病
イタイイタイ病『苦しむ患者を救いたい?イタイイタイ病裁判・弁護士たちの闘い』(画:ながいのりあき)(その時歴史が動いた (漫画) フレッシュアイペディアより)
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水質汚濁防止法から見たイタイイタイ病
水質汚濁防止法が制定されるまでは、昭和33年(1958年)に制定された公共用水域の水質の保全に関する法律(水質保全法)、工場排水等の規制に関する法律(工場排水規制法)によって、規制が行われていた。これらの法律は、1950年代初期から問題となっていた水俣病及びイタイイタイ病への対策として制定された。しかし、規制水域や規制対象業種を個別に指定するため、実効性が不十分であり、1960年代になっても、第二水俣病のような公害が発生し、水質汚濁の未然防止ができなかった。このため、排水規制のしくみを全般的に強化するため、昭和45年に制定されたのが、水質汚濁防止法である。(水質汚濁防止法 フレッシュアイペディアより)
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安中公害訴訟から見たイタイイタイ病
1968年、富山県で起きたイタイイタイ病が報道された。同じカドミウムが原因だということを知った期成同盟の住民らは、5月7日、手書きの壁新聞を20枚作成。高崎市でこれを張り出そうと考え、高崎土木事務所で掲示許可を申請。高崎土木事務所は、1枚を証拠として保存することとし、残り19枚の掲示を許可した。地元安中市で張り出さなかったのは、どうせ工場側・市当局によってすぐにはがされると考えたためであった。この壁新聞の反響は大きく、同年10月11日には高崎中央病院が住民の検診を実施。同10月22日には安中公害をなくす会準備会が結成された。岡山大学農学部教授の小林純は10月6日に、安中地区の公害被害について研究結果を発表した。(安中公害訴訟 フレッシュアイペディアより)
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丸山照雄から見たイタイイタイ病
立正大学在学中に仏教青年運動を組織した。その後、日蓮宗現代宗教研究所調査主任に就任。1970年(昭和45年)公害を起こした企業を呪い殺す「呪殺祈祷僧団」を組織し、四日市市(四日市喘息)や神岡町(イタイイタイ病)などを行脚。それが教団内で問題となり、同研究所を辞職し、教団の役職すべてを辞す。以後は宗派にとらわれない広範な宗教・評論活動をおこなう。特に「行動する仏教徒」として、社会的弱者の救済や評論活動に力を入れ、伝統仏教の改革、仏教の国際ネットワーク形成を提唱し活動。仏教者国際連帯会議、天晴塾、日蓮研究会などを主宰した。歴史学者の上原専禄の晩年に師事していた。(丸山照雄 フレッシュアイペディアより)