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サルデーニャから見た古代エジプト
新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。(サルデーニャ フレッシュアイペディアより)
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トール・ヘイエルダールから見たエジプト文明
また、1969年、「アステカ文明はエジプト文明と類似しており、エジプトからの移民が作った文明ではないか」と考え、古代エジプトの葦製の船に大西洋を渡る能力があることを証明するため、パピルスと呼ばれる葦で作った船「ラー号」で、モロッコからカリブ海を目指した。ラー号は5000kmを航海したところで破損したが、一年後の再挑戦では、見事にカリブ海のバルバドス島まで到達した。(トール・ヘイエルダール フレッシュアイペディアより)
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アスワン・ハイ・ダムから見た古代エジプト
ナイル川は、アスワンのすぐ南で急流が続いており、船舶の航行が不可能となっている。そのため、アスワン(エレファンティネ)は古代エジプトにおいては長く南の国境とされ、ここより南はヌビアとして別の文明圏であると考えられていた。一方でこの地形はダム建設には最適であったため、上述の理由によりナイル川へのダム建設が必要とされるようになると、エジプトを保護下に置いていたイギリスによって調査がおこなわれ、1901年、アスワンのすぐ南にが建設された。これにより治水能力は大幅に向上したものの、いまだナイル川を完全にコントロールできたわけではなかったため、やがてより大規模なダム建設の必要性が認識されるようになった。(アスワン・ハイ・ダム フレッシュアイペディアより)
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ヨシヤから見た古代エジプト
ユダヤ教聖典の記述が正しいとするならば、ヨシヤは、規範的ヤーウェ信仰への強い信仰と誇りを持っていたし、それを実際の政策でも反映させた。これには世俗的動機とのつながりもあり、純粋な精神世界だけの理由ではない。多くの世界同様、当時のオリエントでも、国家の独立とは、信ずる神の独立であり、逆に国家の隷属とは、その国家の信ずる神が、宗主国の神の下部に置かれたり、はなはだしいばあい信仰を禁じられ、宗主国の神(ユダヤの場合、バビロニアやエジプト、ギリシャの神々を押し付けられた、またユダ王国やイスラエル王国もモアブなどの属国にヤーウェ信仰を強制した)を拝まされることであった。ヨシアは、アッシリアの衰退によって生じた権力の空白に伴いユダ王国の独立を回復したが、アッシリアやエジプト、フェニキア人諸国家、バビロニアなどと対等な独立国家・独立民族であるユダ王国・ユダヤ人が、他国の神を拝めることは、信仰心からだけでなく、世俗的誇りとしても許せなかったし、ユダ国家の自立を宣言するうえで、民族神へのゆるぎない忠誠と結束は、ユダの独立を守る決意を示すパフォーマンスでもあった。(ヨシヤ フレッシュアイペディアより)