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  • 古代エジプト

    古代エジプトから見たユーフラテス川

    紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンヘテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。次のトトメス2世は早世したため、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見た没薬

    エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においてもピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見たサワードウ

    古代エジプトの主食はコムギから作るパンであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。紀元前3800年頃にオオムギから作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。ビールはアルコール分が低く、パンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見たシヌヘの物語

    エジプトの文字は、統一王朝成立以前に表語文字であるヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とアブジャドであるヒエラティック(Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。この両文字が誕生してからはるか後世にあたる紀元前660年ごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化したデモティック(民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。この文字を元に様々な文学が成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、知恵文学、教訓文学などのジャンルが存在した『シヌヘの物語』などの作品は、現在まで伝わっている。書写材料としてはカミガヤツリ(パピルス草)から作られるパピルスが主に用いられた。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見た屈折ピラミッド

    紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。この後、エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見た多神教

    紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンヘテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。次のトトメス2世は早世したため、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見たエジプト

    古代エジプト(こだいエジプト)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的にどの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見たニラ

    古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているとおり、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。ナイル川は6月ごろ、エチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こす。この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。作物は大麦と小麦が中心であり、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆。果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見た一神教

    紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンヘテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。次のトトメス2世は早世したため、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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    古代エジプトから見た乳香

    エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においてもピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。古代エジプト フレッシュアイペディアより)

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