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ケニー・レイから見たオリックス・バファローズ
一軍公式戦では、7月17日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)に2番手投手として初めて登板すると、以降の試合では主に先発投手として起用。しかし、9月10日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)2回裏に、鈴木大地の打球を顔面に受けて緊急降板。後に右頬骨の骨折が判明したため、レギュラーシーズンでは、5試合の登板(3試合の先発)で0勝1敗という成績にとどまった。しかし、チームのパシフィック・リーグ初優勝で迎えたロッテとのクライマックスシリーズ ファイナルステージから一軍に復帰。復帰後は、バットマンのようなフェイスガードを装着しながら、救援投手として登板した。同ステージの突破によって進出した読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズでは、10月29日の第3戦(東京ドーム)で先発の美馬学が負傷で降板したことを受けて、6回裏の2死から急遽登板。味方のリードを守ったまま、8回裏の終了まで無失点で凌いだことによって、チームの勝利に貢献した。日本シリーズの登板機会はこの試合だけで、シリーズ終了後の12月2日にNPBから自由契約選手として公示された。(ケニー・レイ フレッシュアイペディアより)
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ターメル・スレッジから見たオリックス・バファローズ
、チームが打席の左右を交互に打順を組む「ジグザグ打線」を採用したことで、5番・指名打者に定着。4番にはこの年8本塁打の高橋信二が座り、「つなぐ4番」として好機を演出しスレッジが返す流れが定着。5月17日のオリックス・バファローズ戦で走塁中に左太もも裏の軽い肉離れのため選手登録を抹消されたが、シーズン計117試合に出場。打率は.266で、目標にしていた30本塁打には届かなかったものの共にチームトップの27本塁打(リーグ3位)、88打点(リーグ4位)と前年以上の成績を残し、ポイントゲッターとしてチームのリーグ優勝に大きく貢献した。クライマックスシリーズ第2ステージでは、シーズン終盤に猛烈な強さをみせ球団初のCS進出を果たし、その第1ステージも2連勝で突破し勢いに乗っていた東北楽天ゴールデンイーグルスを迎え打つ。その第1戦、それまでの勢いそのままに楽天に4-8と大きくリードされ9回裏に突入。1点を返すも尚も3点差の1死満塁で打席に立つ。相手投手福盛和男の投球を左方向へ弾き返すと、打球はそのままレフトスタンドへ吸い込まれる。野球界において最高の一打とされる「3点差逆転サヨナラ満塁本塁打」となり、楽天の勢いを断ち切った。なおこの一打は2010年8月9日に2リーグ制移行60周年記念でNPBが現役選手と監督を対象に行った「史上最高の試合」「史上最高の名勝負・名場面」アンケートの「名勝負・名場面」部門で第1位に選ばれている。2勝1敗を王手をかけた第4戦では岩隈久志から3点本塁打を放ち、日本シリーズ進出を決めるなど、このシリーズ4試合で2本塁打10打点の大活躍をみせ、クライマックス・シリーズMVPを獲得。続く日本シリーズでも本塁打を放つ活躍をみせた。しかし、主砲として一定の結果を残したことで「現状の1億3,500万円からの年俸アップ」、「複数年契約」を主張する代理人側と、将来の和製大砲として期待を寄せる中田翔を育成するため「半レギュラー状態での起用」、「現状維持の年俸」、「単年契約」を提示する日本ハム球団側との間に開きがあり、保有権を喪失した12月1日に自由契約となった。日本ハムは自由契約となった後も引き続き交渉を行ったが、両者の主張は平行線を辿ったままであった。(ターメル・スレッジ フレッシュアイペディアより)
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藤本定義から見たオリックス・バファローズ
田村の意向を受ける形で1946年にパシフィックの監督として球界復帰。また、選手の待遇改善のために日本野球選手会〔現:日本プロ野球選手会〕を発足させ、初代会長に就任した。太陽ロビンスに球団名変更した1947年限りで監督辞任・退団。1948年から1956年まで金星スターズ(1949年からは大映スターズに球団名変更)の監督。1957年から1959年の阪急ブレーブス監督。1960年阪神のヘッド兼投手コーチ、1961年途中から阪神監督に就任。1962年には「打倒巨人」を掲げて 巨人OBの青田昇をヘッドコーチに招聘し、1962年と1964年にリーグ優勝。1966年杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年勇退。監督としての実働期間29年は歴代最長。及び(正式登録上の)監督としての在籍球団数5球団は三原脩・石本秀一と並ぶ最多タイ記録。1968年における一軍監督在任は、プロ選手としての経験が無い一軍監督が在任した最後の例となっている。(藤本定義 フレッシュアイペディアより)