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梁川町から見たカイコ
一方、幕末から昭和初期までは養蚕で栄え、蚕都とも呼ばれた。蚕の温暖育(人工的に室温を調節して効率的に生育させる)を発明し、飛躍的な繭の品質向上を果たして、全国から買い付け人がくるなど隆盛を極めた。町には多数の旅館や金融機関が開業し、歌舞伎座(広瀬座…現在は文化財として福島市に移築保存)もあった。現在町内に残る古い大きな民家は、幕末?明治の繁栄した時代に建築された建物が多い。大手繊維メーカーである日東紡(日東紡績株式会社)が福島で創業したのも、梁川を中心とする福島盆地の養蚕産業と無縁ではない。また、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にも、梁川の養蚕文化に関する展示があり、温暖育のために梁川の中村善右衛門氏が幕末に考案した日本初の寒暖計「蚕当計」のレプリカも展示してある。(「蚕当計」の実物は梁川町立梁川小学校に現存)(梁川町 フレッシュアイペディアより)
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常麿から見た蚕
現在、ニューオータニ美術館所蔵の肉筆美人画「蠶図」(絹本着色)の1点のみがその作として知られており、文化から文政にかけての頃の作とされる。この絵には「常麿」の落款があるが、その下に捺されている印章には「高麿」とあり、落款と印章でなぜ名が食い違っているのかは不明である。「蠶図」は若い娘が蠶(蚕)の世話をする様子を描いたもので、蚕の世話をする絵の作例は既に鈴木春信などにもあるが、それらは伝統的な「耕織図」を意識して画題に取り上げたものであり、本図は若い娘の容姿を主眼としている。娘の顔には喜多川歌麿の画風が伺われ、名に「麿」の字を使うところから、『幻の浮世絵美人たち』では歌麿の門人と推測されるとしているが明らかではない。ただし『肉筆浮世絵大観』は「蠶図」の描写に不慣れな点が見られるので、「絵師を本業としない人物」だったのではないかと述べている。(常麿 フレッシュアイペディアより)
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バチルス・チューリンゲンシスから見たカイコ
1901年(明治34年)に石渡繁胤(いしわたしげたね)により、カイコの病原細菌として日本で発見された。石渡は1901年の論文(大日本蚕糸会報)で、激烈な症状(卒倒)を呈して死亡したカイコ幼虫から Bacillus 属の病原細菌を分離し、この細菌を培養してカイコ幼虫に再び摂食させたところ、同様の激しい症状を呈して死亡したと報告している。石渡はこの細菌病を卒倒病、病原細菌を卒倒病菌と名付けたが、細菌の新種としての記載は行わなかった。(バチルス・チューリンゲンシス フレッシュアイペディアより)
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