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  • 池谷公二郎

    池谷公二郎から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    赤ヘル投手陣の一角として、1975年のカープ初優勝時には外木場義郎の20勝に次ぐ18勝。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは3試合に登板、最終第6戦では先発として起用されるが4回に集中打を喫し降板、敗戦投手となる。翌1976年には20勝を挙げて最多勝を獲得、沢村賞を受賞。その後の5年間で4回の二桁勝利を記録。1979年の近鉄バファローズとの日本シリーズでは2試合に先発。第3戦では7回まで好投、江夏豊につなぎ自身のシリーズ初勝利を飾る。しかし第6戦では早々に打込まれ2回に降板、敗戦投手となった。1980年の近鉄との日本シリーズでも2試合に先発するが、いずれも敗戦投手となる。日本シリーズ通算は1勝4敗に終わるが、3度のセ・リーグ優勝と2度の日本一に貢献した。その一方で高めのストレート勝負が多く、かつ広島市民球場をホームグラウンドとしていたことから被本塁打も多く1977年には48被本塁打を記録し、これはプロ野球記録となっている。池谷公二郎 フレッシュアイペディアより)

  • 加藤初

    加藤初から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    、関本四十四・玉井信博とのトレードにより伊原春樹と共に巨人に移籍、もともと巨人ファンであった加藤には願ってもない話であった。これは張本勲とともに、同年の巨人の戦力補強の象徴とされている。同年4月18日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)では史上51人目(62度目)のノーヒットノーランを達成。この年15勝4敗の好成績を挙げ、セ・リーグでは正式タイトルではないものの最高勝率を記録、巨人の前年最下位からの優勝に貢献した。加藤初 フレッシュアイペディアより)

  • 安仁屋宗八

    安仁屋宗八から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    に広島カープへ入団。当時アメリカの統治下にあった沖縄出身プロ野球選手第1号として注目された。甲子園、都市対抗、プロ野球、全てが沖縄県人で初となった。1年目から一軍に定着し、主に中継ぎとして起用される。5月31日の国鉄戦(東京)で初登板・初先発を果たしたが、5回4失点で敗戦投手となった。6月14日の巨人戦(広島市民)で2度目の先発登板となり、9回1失点で初完投・初勝利を挙げる。当日はラジオで生中継され、那覇市内の電器店の前には黒山の人だかりが出来た。翌日には沖縄タイムスが1面で「安仁屋 待望の初勝利」と掲げ、運動・社会面でも詳報を伝えた。琉球新報では試合経過のほか、社会面で留守宅の様子を伝えた。勝利の瞬間に安仁屋の留守宅は親戚や兄弟が踊り出し、町中の各所でも抱き合って初快挙を喜ぶ姿もあった。テレビはマイクロ回線がまだ通じていないためにネット局から飛行機で運ばれるビデオが数日後に流された。琉球放送が2日後の6月16日昼、更に2日後の6月18日午後11時過ぎと2度も放映した。全国各地で沖縄県出身者による後援会が次々と誕生し、投げる前から話題が先行、そのプレッシャーたるや大変なものであったという。安仁屋宗八 フレッシュアイペディアより)

  • 高宮和也

    高宮和也から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    には、春季キャンプで牛島監督から現役時代の勝負球であったフォークを伝授されるなど、即戦力として期待されていた。当時チームに不足していた左の救援要員として開幕一軍入りを果たすと、4月6日の対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)6回表に救援で一軍公式戦にデビュー。最初に対戦した立浪和義から三振を奪いながら、2回1失点という内容で黒星を喫した。4月20日の対広島東洋カープ(広島市民球場)戦から先発に転向すると、6回5失点という内容ながら、味方打線の援護によってプロ初勝利を記録した。以降の公式戦でも、チームの先発投手不足を背景に先発へ起用されたが、6月17日に左手中指の捻挫で出場選手登録を抹消。結局、一軍公式戦では18試合の登板で、2勝6敗、防御率6.83という成績にとどまった。高宮和也 フレッシュアイペディアより)

  • 大野豊 (野球)

    大野豊 (野球)から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    4月3日の広島市民球場での中日ドラゴンズとの開幕戦で、史上最年長となる42歳での開幕投手を務めた。同年4月12日に通算146勝目を記録。これにより記録した21年連続勝利はに山本昌に更新されるまではセ・リーグ記録であった。だが、持病となっていた血行障害が悪化し、8月4日の巨人戦において高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意した。9月27日の自身の引退試合(相手球団は同年の日本シリーズを制覇する横浜ベイスターズ)は、既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員であった。登板は中根仁に対するリリーフだけであったが、初球のストレートは146km/hを記録し、最後は142km/hのストレートで空振り三振に切って取った。中根は、引退試合の礼儀から対戦前から三振することを決めていた。しかし、初球の146km/hのストレートを見て「これは本気でぶつからないと失礼だ」と感じ、全力で向かい三振に終わった。試合後の挨拶では、大野の人徳からか対戦した横浜の選手までもがセレモニーに参加しその中で「我が選んだ道に、悔いはなし!」と答え、ファンの大歓声を受けた。大野豊 (野球) フレッシュアイペディアより)

  • 広島バスセンター

    広島バスセンターから見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    南西を紙屋町交差点に接しているが、バスの出入りはすべて北側の国道54号(祇園新道)・県立総合体育館前交差点から南下し、旧広島市民球場横を通って行われる。このため、市内路線の大半と、八丁堀・広島駅方面に向かう一部の郊外路線は大回りあるいは渋滞を避けて広島バスセンターに入らないものもある(紙屋町・八丁堀の路上バス停に停車)。広島バスセンター フレッシュアイペディアより)

  • 中東直己

    中東直己から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    呉市立仁方小学校1年から軟式野球部に入るが、練習が週末にしかないことに不満を持ち、2年からはソフトボール部へ移った。幼少期からカープのファンで、広島市民球場に通っていた。小早川毅彦が江川卓から打ったサヨナラホームランは強烈な印象があるという。仁方中学校からふたたび軟式野球部に所属し外野を務めた。進学した広島工高では右肩を痛め、満足なプレーができず、卒業したら野球をやめるつもりだった。しかし知人の紹介で3年生の夏に東亜大学の練習に参加し、再び野球の面白さに気付いた。中東直己 フレッシュアイペディアより)

  • 桑田真澄

    桑田真澄から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    4月13日、東京ドームでの広島戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げる。しかし、この試合で走塁中に右足首を再び捻挫してしまい、同27日の広島市民球場での広島戦では3回途中6失点KOされ敗戦投手となった。この試合が1軍での最後の登板となった。その2日後に登録抹消された。桑田真澄 フレッシュアイペディアより)

  • 広島のサッカースタジアム構想

    広島のサッカースタジアム構想から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    広島は戦前からサッカーが盛んな土地であった。広島高等師範学校(現・広島大学)開校4年後の1906年(明治41年)に行われた運動会で初めて広島でサッカーが行われ、1919年(大正8年)第一次世界大戦後似島の似島検疫所捕虜収容所にいたドイツ人捕虜と広島高師で初の国際試合が行われた記録が残っている。1960年(昭和35年)11月30日全広島対ロコモティフ・モスクワ戦から5度にわたり、広島市民球場(旧広島市民球場)でサッカーが行われたこともある。広島のサッカースタジアム構想 フレッシュアイペディアより)

  • ナゴヤ球場

    ナゴヤ球場から見た広島市民球場 (初代)広島市民球場 (初代)

    9月下旬、超大型台風が東海地方を直撃した影響で中日スタジアムのグラウンドが冠水し、スコアボードも大破するなど大きな被害を受けた。9月26日から予定されていた巨人との3連戦が中止となる。この試合は後日川崎球場などに振り替えて開催された。また水没から復旧した同年9月30日・10月1日(後者はダブルヘッダー)の3連戦を同台風被災地への義援金を募集するシリーズとして開催したほか、10月10-12日(11・12日はダブルヘッダー。また12日は本来中日主管である試合を広島市民球場に会場変更したもの)の5連戦を同様に被災地復興支援シリーズとして開催しているナゴヤ球場 フレッシュアイペディアより)

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