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空手道から見たキックボクシング
フルコンタクト空手のもともとの意味は、アメリカで始められたキックボクシング的なプロ空手のことである。道着を着用せず、上半身裸で行う。2分1ラウンドで、プロの世界王座決定戦では12ラウンドを争う。ボクシングとの差異を計るため、1ラウンドにハイキックを8本以上蹴らなくてはならないルールが特徴的。参加選手の出身流派は、沖縄や日本の空手諸流派だけでなく、韓国のテコンドーやアメリカなど欧米諸国で誕生した新興流派の出身者が多い。現在はキックボクシングの一種として“フルコンタクト・キックボクシング”という呼び名で知れ渡っており、競技として成熟しつつあるせいか、かつてのように必ずしも伝統的な空手の経験は必要で無くなった。(空手道 フレッシュアイペディアより)
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全日本学生キックボクシング連盟から見たキックボクシング
全日本学生キックボクシング連盟(ぜんにほんがくせいキックボクシングれんめい、University Kickboxing Federation )は、日本の学生キックボクシングの統括団体。略称は学生キック、またはUKF 。(全日本学生キックボクシング連盟 フレッシュアイペディアより)
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極真会館から見たキックボクシング
直接打撃制による組手試合は、山田辰雄が1962年に初めて実施していたが、寸止め試合を行う伝統派空手の諸流派から黙殺され失敗に終わった。大山倍達は極真会館竣工以降、1964年に行われた東京オリンピックの各種オリンピック競技をたびたびスタジアム観戦していたことで「極真会館内の競い合いではなく、他流派・他格闘技の参加を認めたオープン制とトーナメント制の選手権大会」を開催しようと検討し始め、名称もこのときは「全日本格闘技選手権大会」としていた。今でこそ直接打撃制の空手道選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時は直接打撃に危惧を抱く会場側は決して協力的ではなく、極真会館は試合会場をなかなか確保できなかった。東京体育館とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシングの例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年9月に念願であった第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)として開催に至った。(極真会館 フレッシュアイペディアより)
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日本のボクシング史から見たキックボクシング
一方、元キックボクサーでキックボクシングジム「山木ジム(現:アルファボクシングジム)」の会長であった山木敏弘が「キックボクシングの女子部門は存在するのに女子ボクシングがない」ことに疑問を持ち、女子ボクサーの育成に着手、キックからの転向組が中心となりマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟興行内に挿入する形で女子ボクシングの試合が行われる。1997年にはそのひとりであるシュガーみゆきが日本人初の世界タイトルを獲得し話題となる。1999年には日本女子ボクシング協会が結成され、初の女子ボクシング興行が行われる。一時は150人以上の女子ボクサーが所属していた。日本女子王者も次々と誕生した。(日本のボクシング史 フレッシュアイペディアより)