124件中 41 - 50件表示
  • キックボクシング

    キックボクシングから見たバンコク

    1962年(昭和37年)、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホールで開催した。これはノックアウト(打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行なわれた。のちのキックボクシングやフルコンタクト空手に先駆ける画期的試みだったが、寸止めルールを採用する当時の空手界からは黙殺され、新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わった。一方、野口修は1962年(昭和37年)8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興行の可能性を感じた。早速野口は空手家にこの構想を打診するが、この時の相談相手が大山倍達(当時大山道場、のちの極真会館)と山田辰雄だった。1963年(昭和38年)、大山道場から黒崎健時・中村忠・藤平昭雄がタイ王国のバンコクへ向かい、空手対ムエタイの交流戦に参加した。当地では「日本から空手が殴り込みに来た」と大変な反響を巻き起こした。結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越したものの、敗れた黒崎は打倒・ムエタイを誓い、1969年(昭和44年)にキックボクシングの目白ジムを創設して、大沢昇・島三雄・藤原敏男らを輩出した。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見た大学

    1969年には日本の大学で初の『日本大学キックボクシング同好会』を同大学生であった山崎照朝が結成。同好会は後に部へ昇格し、1972年10月には全日本学生キックボクシング連盟が発足され、山崎は同連盟の設立に尽力した。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たTBSテレビ

    タイ王国での成功に自信をつけた野口修は、1966年(昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立。空手家やボクサーなど異なる武道・格闘技のバックボーンを持つ選手を集め、4月11日に大阪府立体育会館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、急遽出場を依頼した一人に日大芸術学部空手部・剛柔流空手出身の沢村忠がいた。野口はボクサーであるライオン野口(野口進、元ボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者)の次男であり、帝拳ジムでボクシング業界裏方修行を積んだ、ボクシングの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなく、野口は“キックボクシング”を商標登録していた。キックボクシングは全国的なブームを巻き起こし、在京の民放4局では沢村忠がエースの『YKKアワー キックボクシング中継』(TBSテレビ)、大沢昇がエースの『キックボクシング』『ゴールデン・キックボクシング』(日本テレビ)、山崎照朝がエースの『ワールドキックボクシング』(NETテレビ)、藤原敏男がエースの『キックボクシング中継』(東京12チャンネル)を独自に毎週レギュラー放映するほどの人気に至った。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たベースボール・マガジン社

    『キックボクシング入門』ベースボール・マガジン社、2003年発行(ムック)キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たスカイ・エー

    2000年代には、柴田早千予がキック・ムエタイで合わせて8冠を獲得する活躍を見せる。そして女子総合格闘技のスマックガール(現・JEWELS)などと合わせていわゆる「ジョシカク」としてブームを築き上げ、女子キックボクサーは増加した。それに伴い、全日本・新日本などが女子のみの興行を開始。天空キックボクシング協会は元々女子限定イベントとして旗揚げされたが、翌2006年(平成18年)に男女団体化。2007年(平成19年)にはJ-NETWORKがキック界として初めてとなる女子国内王座「J-GIRLS王座」を創設した。J-GIRLSはスカイ・A sports+での中継もされている。その後もM-1ムエタイチャレンジ、ニュージャパンキックボクシング連盟も女子王座を創設している。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見た帝拳プロモーション

    タイ王国での成功に自信をつけた野口修は、1966年(昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立。空手家やボクサーなど異なる武道・格闘技のバックボーンを持つ選手を集め、4月11日に大阪府立体育会館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、急遽出場を依頼した一人に日大芸術学部空手部・剛柔流空手出身の沢村忠がいた。野口はボクサーであるライオン野口(野口進、元ボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者)の次男であり、帝拳ジムでボクシング業界裏方修行を積んだ、ボクシングの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなく、野口は“キックボクシング”を商標登録していた。キックボクシングは全国的なブームを巻き起こし、在京の民放4局では沢村忠がエースの『YKKアワー キックボクシング中継』(TBSテレビ)、大沢昇がエースの『キックボクシング』『ゴールデン・キックボクシング』(日本テレビ)、山崎照朝がエースの『ワールドキックボクシング』(NETテレビ)、藤原敏男がエースの『キックボクシング中継』(東京12チャンネル)を独自に毎週レギュラー放映するほどの人気に至った。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たウイニング

    着用されるグローブはタイ製のグローブが多いが、日本製のウイニングが採用される場合や、レイジェスなど薄いメキシコ製の場合もあり、規格は特定されていない。ただし、対戦者同士は同じグローブを使用する。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たフルコンタクト空手

    1959年(昭和34年)12月20日、東京都台東区の浅草公会堂でサノン・ETC対ベライノ・チールムーンという、タイ人同士によるムエタイの試合が日本で初めて開催された。日本拳法空手道の創始者・山田辰雄は直接打撃制による空手の試合化を目指しており、その研究の一環としてムエタイに興味を示す。既に山田は同年11月に「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和35年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した。浅草公会堂で行なわれたムエタイ試合が、山田が招聘したものかどうかは判然としないが、山田が日本で初めてムエタイに関心を示した空手家の一人であったことは確かである。山田はさっそく飯田橋の道場にムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して、息子の山田侃にスパーリングの相手をさせ、ムエタイの研究を始めた。このカウキーを山田のもとへ連れてきたのが野口修だったのである。1961年(昭和36年)、山田が発行した『日本拳法空手道教本』創刊号には、すでにカウキーの写真が掲載されており、この時すでに山田は空手とムエタイを融合させた新スポーツの構想を膨らませていた。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たレイジェス

    着用されるグローブはタイ製のグローブが多いが、日本製のウイニングが採用される場合や、レイジェスなど薄いメキシコ製の場合もあり、規格は特定されていない。ただし、対戦者同士は同じグローブを使用する。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

  • キックボクシング

    キックボクシングから見たワタナベエンターテインメント

    1970年代に入ると、野口プロモーションは五木ひろしの興行による莫大な利権でナベプロ、ホリプロとの賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。オイルショック後の大不況、日本テレビやTBSの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち引退)で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。キックボクシング フレッシュアイペディアより)

124件中 41 - 50件表示