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キヤノンから見た表面伝導型電子放出素子ディスプレイ
近年ではディスプレイ事業への進出を目指し、SEDや有機EL、薄型リアプロジェクションテレビの開発も行っている。このほか、中小型有機ELメーカーの日立ディスプレイズに出資している。(キヤノン フレッシュアイペディアより)
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キヤノンから見た砂山角野
吉田五郎がこだわった、コンタックスI型のようなボディー前面巻き上げ方式はベベルギアが必要になるが、坂口時計歯車店では歯切り機が良くなくうまく切れなかった。吉田五郎が夏の暑い日にフォーカルプレーンシャッター幕のべとつきで苦労していると、内田三郎は知人で第一師団麻布歩兵第一連隊中隊長だった山口一太郎大尉を連れて来て、山口一太郎は輸入物で軍用航空写真機用ゴム引き布幕を1反程持って来た。この布幕について小倉磐夫は小西六(コニカを経て現コニカミノルタホールディングス→コニカミノルタ)から持って来たと推定している。その他にも連動距離計、撮影レンズ、ヘリコイドの工作と問題山積の1934年11月、経理担当の前田が5000円の使途不明金があった旨内田三郎に告げ、吉田五郎は濡れ衣を着せられて退職した。吉田五郎の退職と前後し内田三郎は山口一太郎の指導を受け、手作りによる試行錯誤の手法から脱し設計図に従って試作し改良する手法へと転換した。光学系も日本光学工業の監督官をしていた次兄内田亮之輔のつてで日本光学工業の取締役顧問であった堀豊太郎を紹介してもらい、1934年9月内田三郎と前田武男は日本光学工業を訪れてレンズと距離計を依頼した。営業課課長山本茂治と民需品担当の浜島昇係長が応対してこれを引き受け、レンズ設計者の砂山角野を電話で呼んだ。軍需製品では実際の設計者の功績は明らかにされず軍人が評価されることが多いことに不満を感じていた砂山角野も乗り気となり、1935年始めにはニッコール50mmF3.5とニッコール50mmF4.5が完成した。(キヤノン フレッシュアイペディアより)
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キヤノンから見たプロジェクタ
各種プリンター (PIXUS、Satera、imagePROGRAF、SELPHY) や複写機/複合機(PIXUS、Color imageRUNNER、imageRUNNER、ファミリーコピア、ミニコピア、Satera MULTI FUNCTION PRINTER、imagePRESS)、イメージスキャナ/ドキュメントスキャナ (CanoScan、imageFORMULA)、プロジェクタ、ファクシミリ(キヤノフアクス)等といったOA機器やコンピュータ用周辺機器、関連ソフトウェアを開発・製造・発売している。なおファクシミリについては個人用を2006年12月に販売終了し、現在は業務用のみとなっている。さらに、オランダ・オセ社が傘下に入り、基幹系プリンター、連帳プリンター、オンデマンドプリンターなどのラインナップが強化されているほか、業務用フォトプリンター(DreamLabo)などの新規ジャンルも増やしている。(キヤノン フレッシュアイペディアより)