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  • コリー・ペイビン

    コリー・ペイビンから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    カリフォルニア州オックスナード出身。カリフォルニア大学ロサンゼルス校卒業後の1982年にプロデビューする。1991年にPGAツアー賞金王となる。1994年に「東海クラシック」で日本ツアー勝利、翌1995年には初開催から100年後の「第95回全米オープン」でメジャー初優勝を果たした。この全米オープンが開催されたシネコックヒルズゴルフクラブは、全米オープンに初挑戦したアマチュアのタイガー・ウッズが手首を故障して途中棄権に至るほど深いラフ(フェスキュー)とブッシュがセッティングされ、グリーンも固く高速であった。最終日ペイビンは首位と3打差の5位タイスタート、15番ホールで最終組のグレグ・ノーマンとトム・レーマンを逆転して首位に立ち、1打リードした状態で最終ホール(450ヤードの長いパー4、2打目から打ち上げ)に臨み、強烈なプレッシャーと強風の中で、残り228ヤードの第2打を4番ウッドで低いドローボールを打つとボールはピンそば約1.5mに寄り、2パットで逃げ切って優勝した。この大会ではブレード型パターを使用したが、キャッシュイン型のパターも愛用している。コリー・ペイビン フレッシュアイペディアより)

  • ジョン・デーリー

    ジョン・デーリーから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    4歳からゴルフを始め、テレビに映るジャック・ニクラスを手本にスイングを習得して、1987年にプロ入り。デーリーは1991年からPGAツアーに本格参戦を開始したが、その年いきなりクルックドスティックゴルフクラブ(7289ヤード、パー72)開催の第73回全米プロゴルフ選手権で優勝した。ニック・プライスが妻の初産に立ち会うため大会直前に出場辞退して、巡り巡って補欠9番目のデーリーが出場することになり、デーリーは急遽アーカンソー州から会場まで車を走らせ、到着したのは大会初日の朝で、練習ラウンドはおろか、ドライビングレンジで一球も打たずにぶっつけ本番で臨んだが、プライスのキャディの"スクイーキー"ジェフ・メドレンが臨時キャディとして援護して、初日69の好発進、2日目は67、予選通算8アンダーで首位に立つと、3日目69で首位キープ、4日目は71、4日間通算 12 アンダーパー(-12, 276ストローク)で回り、2位のブルース・リツキー(アメリカ)に3打差をつけ、ツアー初優勝をメジャー大会で挙げた選手のひとりになった。この大会ではグレグ・ノーマンも愛用したことのあるコブラ社製作の白色セラミックヘッドのドライバーを使用した。それから、デーリーは1992年9月の「BCオープン」と1994年5月の「ベルサウス・クラシック」で優勝する。デーリーの選手経歴のハイライトは、29歳の時に1995年の第124回全英オープンで訪れた。この大会は名門のセント・アンドルーズにあるR&Aゴルフクラブのオールドコースで開催され、トム・キッドによるセント・アンドルーズ開催の全英オープン初制覇から122年後であり、アーノルド・パーマーの全英オープン引退試合でもあった。デーリーは72ホール終了時点で通算 6 アンダーパー(-6, 282ストローク)で並んだコスタンティノ・ロッカ(イタリア)とのプレーオフを制した。最終日最終組のロッカは72ホール目(最終18番ホール)で、セント・アンドルーズ・オールドコースでの全英オープン史上最も難しいパットと評される「罪の谷」越えの約20mのバーディパットを決めて、土壇場でデーリーに並んだが、4ホール(1-2-17-18番ホール)によるプレーオフでデーリーの前に力尽きた。プレーオフはデーリー1アンダー、ロッカ3オーバーでの決着。1番ホールでロッカが3パット、2番ホールでデーリーが約30フィートのバーディパットを沈めて2打差、17番ホールでロッカがロードバンカーから脱出するのに3打を要しトリプルボギーで勝負あり。“ゴルフの聖地”で栄冠を獲得したデーリーは、30歳の誕生日を迎える前にメジャー2冠(以上)を獲得した4人目の選手になった(デーリーの前にはジャック・ニクラス、トム・ワトソン、ジョニー・ミラーがいた)。この全英オープンでは、ウィルソン社製作のINVEXという名の異形の流線形コンパクトヘッドを持つドライバーを使用した。ジョン・デーリー フレッシュアイペディアより)

  • トム・ワトソン

    トム・ワトソンから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    36歳で臨んだ1986年の同コース開催の第115回全英オープンでは、ワトソンは四日間通算+16で35位タイ。コンコルドで英国入りしたグレグ・ノーマンがメジャー初優勝した。強い寒風と小雨の大会初日は、単独首位のイアン・ウーズナムでさえパープレイであり、ノーマンは74打スタート。弱風の2日目に、ノーマンは3ボギーながらも8バーディ・1イーグル・6パーで全英オープン最小スコアタイの63で廻り、2位に2打差の-3で単独首位浮上。この年のマスターズで復活優勝を遂げたニクラスは+11、ワトソンは+8で予選通過。本選でのノーマンは、風雨の3日目に再び74でスコアを落とし、54ホール終了時点で2位の中嶋常幸に1打差に迫られたが、好天の最終日は69でまとめて、4日間通算280のイーブンパーで、2位に5打差をつけて優勝した。オーストラリア人の全英制覇は1965年のピーター・トムソン以来、21年ぶりの快挙であった。また、ノーマンは1986年のメジャー4大会すべてで54ホール終了時点で首位に立ち、最終日に最終組で廻っており、ノーマンスラム(サタデースラム)と呼ばれているが、優勝はジ・オープンのみ。トム・ワトソン フレッシュアイペディアより)

  • 1996年のスポーツ

    1996年のスポーツから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    4月14日 - マスターズ・ゴルフの最終日に、グレグ・ノーマン(オーストラリア)が78(6オーバー)を叩き、記録的な自滅の敗北を喫する。ニック・ファルド(イギリス)が6年ぶり3度目の優勝を果たした。1996年のスポーツ フレッシュアイペディアより)

  • ジョー・バック

    ジョー・バックから見たグレッグ・ノーマングレグ・ノーマン

    2015年より、グレッグ・ノーマンとコンビを組み、全米オープンゴルフ選手権の実況を担当する予定。ジョー・バック フレッシュアイペディアより)

  • ジャック・ニクラス

    ジャック・ニクラスから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    1986年の第50回マスターズでは長男のジャック・ジュニアをキャディに従えて戦った。最終日4月13日は首位と4打差のスタートだったが、アウト35イン30の驚異的追い上げで「46歳2ヶ月23日」の最年長優勝記録を樹立した時には、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブに"Jack is Back" (ジャック・イズ・バック=ジャックが戻ってきた) の声が響き渡った。最終日のニクラスの詳細は以下の通り。2番ホールでバーディ。4番ホールでボギー。9、10、11番ホールでバーディ。12番ショートホールはボギー。13番ホールで2オン2パットのバーディ。15番ロングホールの第1打は、ドライバーでピンまで214ヤード地点に運び、第2打は4番アイアンでピン左3.5mに2オンして、1パットで沈めてイーグル。池越えの16番ホール (179ヤード、パー3) での5番アイアンでのティーショットはカップを嘗め、あわやホールインワンというスーパーショットでバーディ。17番ホールは、復活のメジャー優勝が目前で感極まり、涙でエイミングが定まらず「試合はまだ終わっていないのだぞ」と自分に言い聞かせてティーショットを打ち、ピン左4mからのバーディパットは、ほぼストレートの下りのスライスラインを読んで成功させた。9番ホールからの10ホールで、1イーグル、6バーディ、1ボギーの怒濤のフィニッシュであった。この大会でニクラスはレスポンスZTという名のアンサー型パターを使用した。1打差の2位には、18番ホールでセカンドショットをミスしてボギーとしたグレグ・ノーマンと18番のバーディーパットを惜しくも外して追いつけなかったトム・カイト。大会3日目には、2回目出場のニック・プライスがコースレコード63で廻った。ジャック・ニクラス フレッシュアイペディアより)

  • アダム・スコット

    アダム・スコットから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    スコットはオーストラリアの英雄グレグ・ノーマンに憧れてゴルフを始め、ジュニア時代から顕著な成績を数多く出していた。2000年6月、大学を2年で中退してプロゴルファーに転向する。直ちに2001年1月の「アルフレッド・ダンヒル選手権」でヨーロピアンツアーに初優勝を飾り、スコットは大型新人選手のひとりとして注目を集め始めた。1999年後半に19歳で一躍世界トップ選手に躍進したセルヒオ・ガルシアの刺激もあり、当時の若手選手たちが少しでも早い成功を求めていた時代背景もあったが、スコットはその中で着実な成長を続けてゆく。スコットのメジャー大会初出場は2001年の全英オープンであったが、2002年のマスターズに初出場で9位入賞を果たし、メジャー大会への挑戦も軌道に乗せた。2002年は3月の「カタール・マスターズ」と8月の「スコットランドPGA選手権」で欧州ツアーに年間2勝を挙げている。アダム・スコット フレッシュアイペディアより)

  • ニック・ファルド

    ニック・ファルドから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    1996年4月14日、ニック・ファルドは第60回マスターズ・トーナメントの最終ラウンドをグレグ・ノーマンと一緒に回ることになった。(注:会場のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブはパー72のコースである)。スタート時点で、首位のノーマンはファルドに6打差をつけていたが、最終日に悲惨な崩壊状態に陥る。この日のノーマンは78(6オーバー)をたたき、67(5アンダー)で回ったファルドに大逆転負けを喫してしまい、ファルドは6年ぶり3度目の優勝を飾った。(最終成績:ファルド -12, 276ストローク/ノーマン -7, 281ストローク)さすがのファルドも、この優勝には複雑な気持ちを隠せず、素直に喜べるものではなかった。翌1997年のマスターズ・トーナメントで、大会前年優勝者のファルドは第1ラウンドを当時21歳のタイガー・ウッズと一緒に回る。マスターズの伝統の1つとして、大会前年優勝者と前年度の全米アマチュア選手権優勝者が予選ラウンドを一緒に回る慣習があり、ウッズは前年度の全米アマチュア選手権優勝者の資格で出場していた。ファルドは若きウッズの勢いにのまれ、大会2日目で予選落ちに終わり、最終日には「21歳3ヶ月」の最年少優勝者となったウッズにグリーン・ジャケットを着せることになった。1997年、ファルドはセベ・バレステロスと一緒に世界ゴルフ殿堂入りを果たしている。ニック・ファルド フレッシュアイペディアより)

  • 中嶋常幸

    中嶋常幸から見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    1986年ターンベリー(パー70)開催の全英オープンでは、7月16日の練習ラウンド終了後に「コースが難しいなら、クラブは易しいものがいい」との判断により、ドライバーを換えて本番に臨んだ。それまでは、この年の関東プロ選手権で優勝した時に使用したハードヒッター向けのスペックのドライバーを使用していたが、これを米ツアーで活躍中のアンディ・ビーンに譲り、ミズノの小野昭司が製作したロフト11度、43.5インチ、バランスD5のドライバーに変更。強い寒風と小雨の初日は首位のイアン・ウーズナムでさえパープレイで、中嶋は74。2日目の中嶋はパットが冴えて、9番ホールから9ホール連続1パットでカップイン(15番から17番ホールは3連続バーディ)させるなどして、この日67。風雨の3日目はショットが冴えて、71でしのぎ、54ホール終了時点で首位のグレグ・ノーマンに1打差の2位となり、久米宏が中嶋の心労を気遣うほど猛烈なマスコミの取材攻勢を受けた。最終日7月20日はノーマンと最終組で午後2時40分(日本時間:同日午後11時40分)スタートで廻ったが、1バーディ(7番ホール)、6ボギー、1ダブルボギー(1番ホール)の77と崩れ、4日間通算289の9オーバーで、ファジー・ゼラーらとともに8位タイに終わった。中嶋常幸 フレッシュアイペディアより)

  • クリス・エバート

    クリス・エバートから見たグレグ・ノーマングレグ・ノーマン

    クリス・エバートはジョン・ロイドとの離婚後、1988年にアルペンスキー選手のアンディ・ミルと2度目の結婚をした。選手引退後、エバートとミルは3人の子供をもうけたが、2006年に再度離婚する。2008年6月、エバートはオーストラリアのプロゴルファーであるグレグ・ノーマンと3度目の結婚をしたが、2009年10月に離婚したことを公表した。クリス・エバート フレッシュアイペディアより)

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