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2015年イエメン内戦から見たコレラ
アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー大統領勢力と、ムハンマド・アリ・アル・フーシを大統領とするフーシ派、そしてアラビア半島のアルカーイダ傘下のアンサール・アル・シャリーア、上記3勢力のイエメン国内戦である。2017年8月時点の報道によると、約5万人が死傷、200万人以上が国内難民となっている。戦闘以外に、水道や衛生・医療システムの破壊により、コレラなど感染症の蔓延も被害を広げている。ハーディ大統領側をサウジアラビアを中心とするイスラム教スンニ派諸国が、シーア派を奉ずるフーシ派をイランがそれぞれ支援する代理戦争という側面もある。(2015年イエメン内戦 フレッシュアイペディアより)
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グイド・フルベッキから見たコレラ
1852年9月2日、22歳のフルベッキはニューヨーク州オーバン市にいた義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。1年後にニューヨークに移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。その後1854年の夏にコレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓った。奇跡的に回復したフルベッキは1855年にニューヨーク市にある長老派のオーバン神学校に入学した。神学生の時に、サミュエル・ロビンス・ブラウンの牧会するサンド・ビーチ教会で奉仕をした。これをきっかけに、ブラウンと共に日本に宣教することになる。(グイド・フルベッキ フレッシュアイペディアより)
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日本のダムの歴史から見たコレラ
日米和親条約により下田と箱館、日米通商航海条約により箱館・横浜・新潟・兵庫(神戸)・長崎が開港した。その後も開港する都市は増え続け、貿易や人口の増加もこれに比例して増加していく。ところが人的交流の拡大は感染症伝播の危険性を高め、殊に上水道の衛生整備が不十分だった日本では水系感染症であるコレラや赤痢が流行した。特にコレラは無治療時の死亡率が60パーセントと高く、江戸市中や神戸などで多数の死者を出し「コロリ」と呼ばれて恐れられた。こうした水系感染症を防止するための衛生的観点と、度々都市を襲った火災による延焼被害を未然に防ぐための防災的観点から、近代水道整備の重要性が叫ばれた。1887年(明治20年)横浜市において実施された相模川を水源とする水道事業が日本最初の水道事業であるが、1890年(明治23年)には日本初の水道関連法規である水道条例が施行され、水道事業は原則市町村が所管することが定められ、以後相次いで水道事業が各都市で開始された。水道を安定的に供給するための水源が求められ、ダムによる水道用貯水池が建設されるようになった。(日本のダムの歴史 フレッシュアイペディアより)
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ヒ素中毒から見たコレラ
以前より知られていることだが、第三世界諸国ではヒ素中毒がさまざまな問題を起こしている。硫砒鉄鉱を含む、地学的に新しい河成堆積物からヒ素が溶け出し、地下水を汚染していることがある。この問題は特にバングラデシュで深刻である。バングラデシュの国民の大多数は土地を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地にすんでおり、衛生状態はきわめて悪い。このため、水を媒介として、コレラや赤痢などの流行がたびたび発生している。こうした状況を改善するため、国際機関が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、井戸の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来地層中に存在したヒ素に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。全土の44%、5300万人が発癌を含むヒ素中毒の危険にさらされていると考えられている。この原因は1970年代以降に作られた掘り抜き井戸が河成堆積物層から水を得ていることによる。WHOの基準値は10 ppb以下なのに対し、この井戸水の濃度はその1000万倍にも達する場合がある。ドイツ、フランス、イタリアでは、ぶどう栽培に砒素を含む殺虫剤により、ぶどう酒を大量に飲む人々の間で発生したことは有名である。 日本では、島根県笹ヶ谷鉱山の公害や宮崎県の土呂久鉱山周辺における土呂久砒素公害などで鉱業従事者や付近住民への健康被害が公害として問題となった。飲用水の汚染による場合が多いが耳鼻科的症状もあり、工場活動時の煙害も考えられている。ヒ素混入による公害としては森永ヒ素ミルク中毒事件が有名である。最初は急性ヒ素中毒であったが、現在では慢性ヒ素中毒の症状を呈している。(ヒ素中毒 フレッシュアイペディアより)
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