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コロンビアから見たサンティアゴ・デ・カリ
エクアドルから続くアンデス山脈は西部のと、中央の、東部のに別れ、山脈内でも場所や高度によりまた違った世界が存在している。オクシデンタル山脈には3000m級の山、セントラル山脈にはウイラ山(5364メートル)、トリマ山(5220メートル)、ルイス山(5321メートル)などの5000m級の山が存在し、そこには氷河も残っており、メデジンを含むアンティオキア地方や、カリを含むバジェ・デル・カウカ(カウカ河谷)地方もこの山脈内にある。中央山脈は430万年前の地殻変動・火山活動で隆起した。火山性堆積物(火山灰、軽石など)が多く、現在も多数の火山が存在する。溶岩流や土石流によって作られた平坦な地形も多く見られる。(コロンビア フレッシュアイペディアより)
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コロンビアから見た政権
ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となり、1827年にボリビアから帰還した。コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する の不満が高まった。サンタンデル派は1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた()。その後ベネズエラが独立を要求した。1830年にエクアドル(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)は独立し、ベネズエラもパエスの指導下で完全独立を果たしたため、ボリバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意の内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として独立した。(コロンビア フレッシュアイペディアより)
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コロンビアから見た日系コロンビア人
1908年(明治41年)5月25日、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、両国間の国交が開かれた。コロンビアに初めて足を踏み入れた日本人は1915年(大正4年)、広島県竹原市出身の水野小次郎である。水野はカリブ海沿岸のバランキージャに移住し、同郷の者を呼び寄せ、これが日系コロンビア人の源流となった。1921年(大正10年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の関東大震災で東京の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚し子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、昭和天皇崩御の際は当時のバルコ大統領の代行で来日した。1923年には島清、中村明ら5名が安洋丸でブエナベンツーラ港に入港。1926年、海外興行会社社員の竹島雄三らにより移住候補地の調査開始。1929年(昭和4年)、主に福岡県などから入植が始まり、農業で成功した。ブラジルやペルーに比べて少ないが、現在もカリを中心に1800人ほどの日系コロンビア人が存在し、南米の日系移民では最も成功したとされる。1941年の太平洋戦争で一時国交を断交したが、戦後の1952年に再開した。また戦後の食糧難の時代にコロンビアは日本に米を送った。貿易関係ではコロンビア産のコーヒーが多く日本に輸出されている。(コロンビア フレッシュアイペディアより)
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