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コートジボワールから見たアフリカ連合
2006年1月、国際連合コートジボワール活動(UNOCI)やアフリカ連合(AU)傘下の作業グループが、国民議会の任期延長認めないと発表したとして、「ジュンヌ・パトリオット」たちがアビジャン市内の道路を封鎖した。また、国内のフランス軍とPKOに従事する各国軍(バングラデシュ、モロッコ、セネガルなど)の基地、フランス大使館、国営テレビ前で抗議活動が行われた。西部に駐留するバングラデシュ軍はそれらに発砲して4名が死亡した。結局、ナイジェリアのオルシェグン・オバサンジョ大統領が、作業グループにはそのような権限はないと認めて、騒動に終止符を打った。しかし7月19日、シャルル・コナン・バニー首相の推し進めている、選挙実施のための身分証明書の発行方法に不満を持つ「ジュンヌ・パトリオット」が、アビジャン市内の主要な道路にバリケードを築いて、交通を遮断するなど、騒動が再燃した。(コートジボワール フレッシュアイペディアより)
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コートジボワールから見た西アフリカ諸国経済共同体
29日には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)がガーナのアクラで緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。バグボ大統領は10月12日にクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。対する反乱軍は17日にブアケでセネガルなどの調停に応じて停戦協定に調印、政府側も停戦に応じた。ECOWASは26日に停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、11月には政府と反乱軍がトーゴのロメで和平交渉を開始した。11月28日に西部のマン周辺で(MJP)や(MPIGO)を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、29〜30日にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、2003年1月にパリ郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「停戦」を宣言した。(コートジボワール フレッシュアイペディアより)
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コートジボワールから見たサッカーコートジボワール代表
サッカーが盛んであり、コートジボワール代表は1992年のアフリカネイションズカップで優勝し、2006年のドイツ大会では予選でカメルーン代表を破って本戦への初出場を果たした。主なプロクラブとしてはASECミモザ、アフリカ・スポールなどの名が挙げられる。(コートジボワール フレッシュアイペディアより)
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コートジボワールから見たオリンピック
独立後のオリンピック初参加となった1964年東京オリンピックの開会式では、英語名の"Ivory Coast"を片仮名へ転写した「アイボリーコースト」の名称で入場した。その6年後の1970年に開催された大阪万博では「象牙海岸館」の名称でパビリオンを出展している。1986年にコートジボワール政府から日本政府へ外名の変更を要請されて以降、外務省大臣官房総務課が内規として定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワール」も選択表記と言う形で公文書への使用が可とされた。これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『世界の国一覧表』が「象牙海岸」から「コートジボワール」に表記を変更し、日本郵便の宛先表記やNHKを始めとするマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワール」が使用されるようになっている。それ以降も法文上はなお「象牙海岸共和国」が使用されていたが、2003年に国名の日本語標準表記の根拠法令とされる在外公館の名称及び位置並びに在外公館に勤務する外務公務員の給与に関する法律(在外公館設置法)別表1の改正で当時は既に一般的でなくなっていた他の国名表記と合わせて見直しが実施され、法文上の表記に関しても「象牙海岸」を廃して「コートジボワール」に統一された。これは政体の変革等に伴う変更を別にすれば、日本語における国名の標準表記が変更された初めての例である。(コートジボワール フレッシュアイペディアより)