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ザ・フーから見たミッチ・ミッチェル
プロデビューへの光が見えてきた矢先、4月初旬に受けたレコーディング・オーディションで「ドラムに問題あり」と評されたことが引き金となり、タウンゼントとダグ・サンダムが衝突し、かねてからザ・フーの音楽性になじめなかったサンダムはこれをきっかけにバンドを脱退する。後にタウンゼントはサンダムを追い出したことを「人生における最大の後悔の一つ」と語った。すぐに別のドラマーを雇い入れたが(つなぎで入れたドラマーの中には、後にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのメンバーとなるミッチ・ミッチェルもいた)、それから間もない4月末頃、ザ・フーのギグ中に客席から一人の男が「俺の連れの方が上手い」と、ある少年をステージに上げた。その少年こそがキース・ムーンだった。ムーンはその激しいプレイでドラムを壊してしまい、度肝を抜かれたメンバーはすぐさまムーンをザ・フーに加入させた。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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ザ・フーから見たシャドウズ
ディトゥアーズの当時の主な演奏レパートリーはベンチャーズやシャドウズ、ビートルズといった最新ヒットのカバーやトラッド・ジャズで、オリジナル曲はなかったが、1963年にはタウンゼントが初めて書いた曲が実験的にレコーディングされている。またこの年の秋ごろより、当時のロンドンの音楽の趨勢に影響される形で、レパートリーをヒット曲のカバーから泥臭いシカゴ・ブルースに変えた。ダルトリーは「(レパートリーを変えた事で)今までのファンを全て失い、それを取り戻すのに半年かかった。でもその時にはファンの数が以前の3倍になっていた」と当時を振り返っている。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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ザ・フーから見た和久井光司
ザ・フーはアマチュア時代にはR&Bなどのブラック・ミュージックを中心にプレイして来たが、ビートルズやローリング・ストーンズといった同年代のバンドに比べると黒人音楽の要素は薄く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』の頃から独自のポップセンスを見せていた。パワー・ポップというジャンルはタウンゼントが発した言葉から生まれたとされているが、当時のザ・フーはハードでラウドな演奏にキャッチーなメロディを乗せるというパワー・ポップの特徴そのものだった。ミュージシャンで音楽評論家の和久井光司は「ザ・フーには正統的なブルースの要素がないのが“パンクの元祖”になり得た秘訣だろう。伝統なんてものはパンクスにとって壊してナンボのものだから、ブルースの要素は迷惑でしかない」と分析している。だが1969年のアルバム『トミー』でシリアスで内省的な作風に転換し、それまでのポップバンドのイメージを刷新すると、初のライブ盤『ライヴ・アット・リーズ』ではこれまでレコードでは表現しきれなかった彼らのハードロック・バンドとしての側面を見せた。そのハードロックサウンドをスタジオで再現し、さらにシンセサイザーを導入して時代の最先端をいくプログレッシブな傑作となった『フーズ・ネクスト』で、彼等はその人気を決定付ける事となる。『四重人格』ではそのエレクトロニクス・サウンドをさらに推し進めたが、その次の『バイ・ナンバーズ』では一転してシンプルなサウンドに戻るなど、時代や作品によって様々な側面を見せた。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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ザ・フーから見たスライ&ザ・ファミリー・ストーン
同年8月16日?17日、ウッドストック・フェスティバルに出演。ザ・フーの出番は夜10時からのはずだったが、降雨による中断でただでさえ時間が押していたにもかかわらず、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが3時間以上も演奏を続けたため、彼らの出番は朝の4時にまで伸びた。「シー・ミー・フィール・ミー」の演奏中、偶然にも太陽が昇り始め会場に不思議な効果をもたらした。タウンゼントは「信じられない気持ちだった」とその時の興奮を語り、エントウィッスルは「神が俺達の照明係だったのさ」と軽口を叩いている。この模様は映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』にも収められている。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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ザ・フーから見たサイモン・フィリップス
1985年7月、ライヴ・エイドにて最初の再結成。1988年2月には英国レコード産業協会(BPIアワード)の授賞式で3曲を披露。これを最後にケニー・ジョーンズはザ・フーと袂を分った。この前年の1987年、タウンゼントは結成25周年に当たる1989年に、ザ・フーとしての新作とツアーを行う事を表明していたが、新作は彼のソロアルバム『アイアン・マン』の中で、ザ・フー名義の曲が2曲収録されるに留まった。しかしツアーは『トミー』の発表20周年に合わせて敢行された。このツアーでは総勢15名にもなる豪華なバックバンドを従え、演奏もかつてのものとは異なりかなりシンフォニックなものになった。メンバーは1985年から1986年にかけてタウンゼントのソロ・ライブ時に編成されたディープ・エンドという名のバックバンドが流用される形となり、ドラムを担当したサイモン・フィリップスもその中の一人であった。だがこの頃より、タウンゼントが以前より患っていた難聴が進行し、自身はアコースティックギターを弾くに留まり、それを補うためにセカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンが起用される。このツアーにおける録音は、後にライヴ・アルバム『ジョイン・トゥゲザー』としてリリースされた。1990年、ロックの殿堂入り。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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ザ・フーから見たジェネシス (バンド)
ムーンの死に際し、バンドの元にジェネシスのフィル・コリンズから「いつでもお役に立つぜ」と連絡が来たが、タウンゼントが望んでいたのは元フェイセズのケニー・ジョーンズだった。1979年、タウンゼントの希望通りケニー・ジョーンズが新メンバーとして加入、またサポートメンバーのキーボーディストにジョン・“ラビット”・バンドリックを加え、ザ・フーは再始動する。だが同年12月3日、米オハイオ州シンシナティでのコンサートで開場時に観客が入場ゲートに殺到し、将棋倒しとなって11人が死亡する事故が起きる。メンバーはライヴ終了後に事を知らされ、大きなショックを受ける。同年12月28日、カンボジア難民救済コンサートに出演。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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ザ・フーから見たベンチャーズ
ディトゥアーズの当時の主な演奏レパートリーはベンチャーズやシャドウズ、ビートルズといった最新ヒットのカバーやトラッド・ジャズで、オリジナル曲はなかったが、1963年にはタウンゼントが初めて書いた曲が実験的にレコーディングされている。またこの年の秋ごろより、当時のロンドンの音楽の趨勢に影響される形で、レパートリーをヒット曲のカバーから泥臭いシカゴ・ブルースに変えた。ダルトリーは「(レパートリーを変えた事で)今までのファンを全て失い、それを取り戻すのに半年かかった。でもその時にはファンの数が以前の3倍になっていた」と当時を振り返っている。(ザ・フー フレッシュアイペディアより)
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