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    ザ・フーから見たベティ・デイヴィス

    終盤で行われる楽器破壊もまたザ・フーのコンサートの目玉だった。元々はタウンゼントが天井の低い会場で誤ってギターを天井にぶつけたのがパフォーマンスと受け取られたことがきっかけだった。この楽器破壊のパフォーマンスはたちまち評判を呼び、観客のみならず、取材に来た記者までもが客席から「ピート、ギターを壊せ!」と煽る始末だった。パフォーマンスでやる場合もあれば、感情にまかせて破壊することもあり、1973年にはテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で、何を思ったかタウンゼントは、演奏中に突然ギターとムーンのドラムスを破壊した(この時中指をつき立てたりもしたため、BBCから出入り禁止の処分となった)。タウンゼントに影響される形で、やがてムーンもドラムを壊すようになった。特に語り草となっているのが1967年のテレビ番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」出演時のパフォーマンスで、ムーンはバスドラムに安全基準を超える大量の閃光粉を仕込み、演奏後に爆発させた。爆風をまともに受けたタウンゼントは一時的に耳が聞こえなくなり、これが現在まで続く聴覚障害の遠因となった。ムーン自身も負傷し、さらにゲストのベティ・デイヴィスを気絶させた。こうした過激なステージパフォーマンスは、後にパンク・ロックのアーティストら(セックス・ピストルズ、パール・ジャムなど)に大きな影響を与えた。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たチャック・ベリー

    大盛況だったツアーであるが、トラブルもあった。1969年5月16日、フィルモア・イーストでのライブ中、会場の近隣で放火事件が発生し、会場内にも煙が立ち込め始めたため、私服警官がステージに上がりコンサートを中止させようとしたところ、ダルトリーとタウンゼントから暴行を受ける。コンサートは中止となり、二人は暴行のかどで通報され、翌日警察に出頭した。6月に行われた裁判の結果、タウンゼントが75ドルの罰金刑、ダルトリーは無罪となった。タウンゼントによればボヤ騒ぎのことをメンバーに伝えることをスタッフが怠ったため、警官をただの暴漢と勘違いして暴行に至ったという。7月5日に行われたロイヤル・アルバート・ホール公演でも、共演者のチャック・ベリーと出演順をめぐってトラブルになったり、また観客のテディ・ボーイ達が暴れて警察ともみ合うなど大混乱となった。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たジェフ・ベック

    デビュー40周年の2004年、3月22日のロンドンよりツアーを開始。6月12日、復活版ワイト島フェスティバルに出演。7月24日および25日、横浜と大阪で開催されたロック・フェスティバル、POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004への出演のため初来日。その後2008年にもバンド単独での来日公演が行われている。また、このツアーでは1968年以来となるオーストラリア公演が実現している。2005年7月2日、ハイドパークで行われたLIVE 8に出演。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーに出ていたため、代役としてデーモン・ミンチェラとスティーヴ・ホワイトがそれぞれのパートを担当。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たクイーン (バンド)

    日本におけるザ・フーの知名度は、ビートルズやストーンズ、また1970年代以降に登場したレッド・ツェッペリンやエアロスミス、クイーンなど、同年代に活躍したバンドに比べると高いとは言えず、スモール・イン・ジャパンの代表として挙げられることがある。バンドの代表作の一つでもある『四重人格』も、当時の日本では全く話題にならなかったという。音楽ライターの夏川翠はこの原因について、彼らが全盛期だった1970年代に来日しなかったからだと指摘する。ザ・フーが来日しなかった理由については当時から様々な憶測が流れていたが、夏川は「実話だ」として次のような話を明かしている。夏川が海外アーティストの追っかけをしていた1972年当時、同じく追っかけをしていた友人があるプロモーターの社長に「ザ・フーを呼んで」とお願いしたところ「ダメ、あれは怖いから!」と断わられたという。彼らはレッド・ツェッペリン以上の乱暴者の集団であるとの噂が日本に伝わっていたのである。尚、1975年には映画『トミー』のヒットに乗じて来日しようと、実際にバンド内で話し合いが持たれたことがあるが、タウンゼントが様々な問題を抱えて気落ちしていた時期でもあり、彼が拒んだため結局実現しなかった。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス

    プロデビューへの光が見えてきた矢先、4月初旬に受けたレコーディング・オーディションで「ドラムに問題あり」と評されたことが引き金となり、タウンゼントとダグ・サンダムが衝突し、かねてからザ・フーの音楽性になじめなかったサンダムはこれをきっかけにバンドを脱退する。後にタウンゼントはサンダムを追い出したことを「人生における最大の後悔の一つ」と語った。すぐに別のドラマーを雇い入れたが(つなぎで入れたドラマーの中には、後にジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのメンバーとなるミッチ・ミッチェルもいた)、それから間もない4月末頃、ザ・フーのギグ中に客席から一人の男が「俺の連れの方が上手い」と、ある少年をステージに上げた。その少年こそがキース・ムーンだった。ムーンはその激しいプレイでドラムを壊してしまい、度肝を抜かれたメンバーはすぐさまムーンをザ・フーに加入させた。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たロジャー・ダルトリー

    ロジャー・ダルトリー (Roger Daltrey CBE, 1944年3月1日 - )(ボーカル、ハーモニカ)ライブでは曲によってタンバリンやギターも担当する。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見た麻薬

    ゴードンがフリーランスで活動していたピーター・ミーデンをザ・フーのパブリシストとして雇った事から、メジャー・デビューへの動きが加速する。フォンタナ・レコードと契約を取り付けたミーデンは、バンドを当時流行していたモッズ族として売り出すことを画策し、メンバーにモッズ系の服を着ることを命じ、さらにバンド名をハイ・ナンバーズと改めさせた(「ナンバー」とはモッズの間でストリートにたむろする者を表すスラングで、「ハイ」は彼らがドラッグで常にハイであったことにちなむ)。1964年7月3日、ミーデンが書いた「ズート・スーツ/アイム・ザ・フェイス」(2曲とも実際にはミーデンのオリジナル曲ではなく、既存曲の歌詞を書き替えただけのものである)で、ハイ・ナンバーズはレコード・デビューする。しかしレコードは1000枚しかプレスされず、ミーデンの懸命な宣伝活動の甲斐もなく、デビューシングルは不発に終わる。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たロンドン

    ディトゥアーズの当時の主な演奏レパートリーはベンチャーズやシャドウズ、ビートルズといった最新ヒットのカバーやトラッド・ジャズで、オリジナル曲はなかったが、1963年にはタウンゼントが初めて書いた曲が実験的にレコーディングされている。またこの年の秋ごろより、当時のロンドンの音楽の趨勢に影響される形で、レパートリーをヒット曲のカバーから泥臭いシカゴ・ブルースに変えた。ダルトリーは「(レパートリーを変えた事で)今までのファンを全て失い、それを取り戻すのに半年かかった。でもその時にはファンの数が以前の3倍になっていた」と当時を振り返っている。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たスチュワーデス

    1968年1月からスモール・フェイセズ、ポール・ジョーンズと共にオーストラリア?ニュージーランドへ遠征する。オーストラリアでのツアー中、移動中の飛行機内でトラブルを起こし警察に連行された。事の発端はあるスチュワーデスがメンバーを侮辱したことだったが、航空会社はスチュワーデスの言い分をそのままのみ、バンド側が酔っ払って下品な言葉を並べたためと訴えた。これに加え現地のメディアからひどいバッシングを受けたことも相まって、グループは二度とオーストラリアを訪れないことを宣言した。2月より再びアメリカ本土に上陸、断続的なツアーは8月末まで行われた。ダルトリーは「アメリカが俺達を団結させてくれた。他に頼れるものはなく、力を合わせるしかなかったんだ」と語っている。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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    ザ・フーから見たアメリカ同時多発テロ事件

    2001年2月、グラミー賞特別功労賞を受賞。10月20日、アメリカ同時多発テロ事件被害者のための支援コンサートとして米マディソン・スクエア・ガーデンで行われたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演。2002年2月7日と8日の両日、ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートに出演。これがエントウィッスルが参加した最後のライブ演奏となった。ザ・フー フレッシュアイペディアより)

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