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シャビから見たカディスCF
1998年8月18日、スーペルコパ・デ・エスパーニャのマジョルカ戦でトップチームデビューし、その試合で得点してタイトル獲得に貢献した。10月3日のビジャレアル戦でリーガ・エスパニョーラデビューし、3-1で勝利を飾った。デビューしてからしばらくはFCバルセロナBとトップチームを往復する日々が続いたが、バリャドリード戦で決勝点を決めて中位に低迷していたチームの巻き返しに一役買い、ルイ・ファン・ハール監督率いるチームで鍵となる選手に成長した。1999-2000シーズンはレギュラーのMFジョゼップ・グアルディオラが負傷で試合を欠場することが多く、シャビがプレーメーカーの一番手で起用されるようになった。2000-01シーズンまではグアルディオラとコンビを組むことが多く、グアルディオラが退団した2001-02シーズンはMFフィリップ・コクーとコンビを組むことが多かったが、2003-04シーズンには下部組織からMFアンドレス・イニエスタが昇格し、退団したコクーに代わってコンビを組むことが多くなった。2004年夏にはチームの副キャプテンに就任した。同年夏にはMFデコが加入し、イニエスタを含めた中盤の3人は抜群のコンビネーションを発揮し、2004-05シーズンのリーグ優勝に貢献した。2005年12月2日、練習中にグラウンドのぬかるみに足を取られて転倒し、左膝前十字靭帯を断裂する重傷を負った。手術では形成による靭帯の再生処置が施され、5ヶ月間のリハビリに取り組んだ。2006年4月のカディスCF戦でデコに代わって途中出場し、10分間プレーした。UEFAチャンピオンズリーグ決勝にも出場し、チームはリーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグの2冠を達成したが、シャビ自身にとっては不完全燃焼のシーズンであった。(シャビ フレッシュアイペディアより)
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シャビから見たFCバルセロナB
1991年、11歳の時にFCバルセロナの下部組織に加入し、ラ・マシアに入寮した。はじめてもらった24ユーロ(約3200円)の給料は故郷の母へトースターをプレゼントするのに使ったという。順調に下部組織のカテゴリーを昇格していき、1997年にはジョルディ・ゴンサルボが率いるFCバルセロナBに昇格し、セグンダ・ディビシオン(2部)昇格を果たしたチームのキープレーヤーであった。この頃、ミランから4年契約で移籍オファーがあったが、家族から離れることを嫌い受けなかったと、後に母親がスペインメディア『TV Cuatro』のインタビューに応えて明かしている。(シャビ フレッシュアイペディアより)
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シャビから見たエル・クラシコ
2006-07、2007-08シーズンと連続してリーグ優勝を逃したためにフランク・ライカールト監督が辞任し、かつてのチームメイトであるジョゼップ・グアルディオラが監督に就任した。2008-09シーズンは、リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグの3冠を達成したチームの中で重要な役割を担った。2008年12月20日、クラブとの契約を2014年まで延長し、クラブで最も高額な部類となる年俸750万ユーロに昇給した。2009年2月14日のベティス戦のフル出場で公式戦通算452試合フル出場を達成し、クラブ歴代2位のFWカルロス・レシャックのフル出場記録に並び、ランクの上にはDFミゲリ(548試合フル出場)しかいない。5月2日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコでは4アシスト(プジョルとアンリに対して1アシスト、メッシに対して2アシスト)を決め、6-2と大勝してリーグタイトル獲得を決定づけた。ビルバオとのコパ・デル・レイ決勝では駄目押しとなる直接フリーキックを決めた。マンチェスター・ユナイテッドとのUEFAチャンピオンズリーグ決勝では69分にリオネル・メッシの得点をアシストし、ペナルティエリアの外からゴールポストを叩くシュートを放った。最終的に2-0で勝利して自身2度目の優勝を果たし、同大会の最優秀MFに選出された。2008-09シーズンのリーグ戦ではリーグ最多の20アシストを記録し、UEFAチャンピオンズリーグでも最多の7アシストを記録した。(シャビ フレッシュアイペディアより)
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シャビから見たUEFA EURO 2012予選
2011年3月25日のUEFA EURO 2012予選のチェコ戦で、スペイン代表史上4人目となる代表100試合出場を達成した。(シャビ フレッシュアイペディアより)