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  • ヴィクトリア湖

    ヴィクトリア湖から見たスーダンスーダン

    探検がほぼ終了すると、まもなくこの地域もアフリカ分割の対象となった。きっかけはヴィクトリア湖のはるか北、スーダンで起こったマフディー戦争であった。1881年にムハンマド・アフマドが起こした反乱は1885年にはハルツームを落とすまでになり、エジプトはいったんスーダンからの撤退を余儀なくされる。しかしその撤退地域のさらに奥、エジプト最南端の赤道州の州都ゴンドコロ(現在のジュバ)には総督エミン・パシャが残留しており、孤立しながら何とか独立を保っていた。エミン・パシャは本名をシュニッツァーというドイツ人であり、彼を救出すると称してイギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣したのである。北からはマフディー軍によって近づけないため、この救出作戦は南のヴィクトリア湖方面から進められた。救出作戦自体はヘンリー・モートン・スタンリー率いるイギリス隊に軍配が上がり、1889年にエミン・パシャは「救出」されて赤道州政府は滅亡した。これに対してドイツ隊は出遅れたが、代わりにブガンダ王国と友好条約を締結するなどしてこの地域に進出を図った。このドイツの行動に対し以前からブガンダと接触を持っていたイギリスは反発したが、結局1890年8月10日、ヘルゴランド=ザンジバル条約により南緯1度の線に両国の境界線が引かれ、ブガンダなどのヴィクトリア湖北部はイギリスの勢力範囲、それ以南はドイツの勢力範囲となり、ヴィクトリア湖は南北にほぼ二分された。これに基づいて、イギリスはブガンダ王国やブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といったヴィクトリア湖周辺の国々と条約を締結し、1894年にはウガンダ保護領が成立した。同時にドイツも南岸の攻略を進め、19世紀末にはドイツ領東アフリカが成立した。ヴィクトリア湖 フレッシュアイペディアより)

  • アフリカ分割

    アフリカ分割から見たスーダンスーダン

    また、奴隷貿易の対象ではなく宗教上のライバルであった北アフリカのイスラム諸国は、19世紀には宗主国オスマン帝国の影響力が衰え、また自立した群小政権もヨーロッパ勢力の経済的・軍事的な発展に対してほとんど為す術がないほど弱体化していた。ここに入り込もうとしたのが当時の植民地大国であるイギリスとフランスであり、両国はナポレオン戦争時代からエジプトの支配権を巡って対立関係にあった。1869年、フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成させたが、この建設はエジプト財政に対する過大な負担に跳ね返り、1875年になってスエズ運河会社の株を購入したイギリスがかわってエジプトの支配権を手に入れた。1882年、イギリスはついにエジプトを保護国化し、さらに南のスーダンへと侵攻する。アフリカ分割 フレッシュアイペディアより)

  • 訃報 2009年

    訃報 2009年から見たスーダンスーダン

    2月18日 - アッ=タイーブ・サーレフ(Al-Tayyib Salih)、スーダンの作家(* 1929年)訃報 2009年 フレッシュアイペディアより)

  • 近代における世界の一体化

    近代における世界の一体化から見たスーダンスーダン

    エジプトの属領だったスーダンでは、ウラービー革命とほぼ同時期に「マフディー」(「救世主」という意味)を名のる指導者ムハンマド・アフマドがあらわれ、外国支配や重税に不満をいだく民衆を結集して立ち上がった。イギリスが軍事介入をこころみたが失敗し、10年以上を費やして、ようやく1898年にマフディー国家を滅ぼしてスーダンを支配下におくことに成功した。しかし、このイスラーム教徒の戦いは、アフリカ各地の部族連合王国の抵抗を勇気づけた。近代における世界の一体化 フレッシュアイペディアより)

  • 中華人民共和国

    中華人民共和国から見たスーダンスーダン

    中華人民共和国政府は、人権抑圧国家と言われているスーダン、ミャンマー、ジンバブエ、イラン、北朝鮮などの国々との関係を深めている。例えばスーダンのダルフール紛争の大量虐殺に対する国際介入に反対する動きをとっている。また、近年になりイスラム過激派テロ組織に武器・弾薬を横流ししている疑惑が暴かれた。さらに、2011年夏に北朝鮮に長距離弾道ミサイル運搬用特殊車両を輸出していた(これは国連安保理決議違反である)ことも判明した。こうしたことから欧米諸国の知識人やマスコミは、中華人民共和国政府を「自由と人権の敵」として批判することが多い(詳細は中国の人権問題を参照)。中華人民共和国 フレッシュアイペディアより)

  • サハラ砂漠

    サハラ砂漠から見たスーダンスーダン

    サハラ砂漠は西端で大西洋に接し、北端ではアトラス山脈および地中海に接する。東側はエジプトと紅海に面し、スーダンとニジェール川を南の境とする。サハラ砂漠の中は西サハラを含むいくつかの地域に分割される。サハラ砂漠は標高300m程度の台地が広がり、中央部にはホガール山地(アルジェリア南部)、アイル山地(ニジェール北部)、ティベスティ山地(チャド北部)がある。サハラ砂漠の最高点は、ティベスティ山地のエミクーシ山(3415m)である。サハラ砂漠の約70%は礫砂漠で、残りが砂砂漠と山岳・岩石砂漠である。サハラ砂漠 フレッシュアイペディアより)

  • ムハンマド・アリー

    ムハンマド・アリーから見たスーダンスーダン

    エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至った。最終的には勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。ムハンマド・アリー フレッシュアイペディアより)

  • 第2回南米・アラブ諸国首脳会議

    第2回南米・アラブ諸国首脳会議から見たスーダンスーダン

    政治分野では、イスラエルに対して、シリア、パレスチナ及びレバノンの占領地からの撤退を求めるとともに、レバノン問題に関して国際連合安全保障理事会決議1701違反として非難。アメリカの対シリア制裁を批判し、2003年に制定されたシリア問責及びレバノン主権回復法を国際法違反と非難した。また、イラク問題やスーダン問題についても言及した。経済分野では、世界的な金融危機と、それにより影響を受ける貧困国に対する支援に対して、共通の関心を表明。両地域の経済交流に関しては、2005年の第1回南米・アラブ諸国首脳会議以来、目覚ましい発展を遂げたと評価し、引き続き協力に努めるものとした。その他、環境問題、文化、科学、教育分野における協力、貧困や飢餓の軽減などが話し合われた。次回の会合については、2011年にペルーの首都リマで開催することを取り決めた 。第2回南米・アラブ諸国首脳会議 フレッシュアイペディアより)

  • エリトリア解放戦線革命評議会

    エリトリア解放戦線革命評議会から見たスーダンスーダン

    1958年に結成されたエリトリア解放戦線(ELF)のメンバーのうち、ELFが1981年にティグレ人民解放戦線(TPLF)とエリトリア人民解放戦線(EPLF)によってスーダンに退去させられた際EPLFに合流しなかったメンバーの一部によって結成された。EPLFとELF-RCとの最も重要な違いはELF-RCは多元的民主主義を受容している点である。1991年のエリトリア人民解放戦線(EPLF、現・民主正義人民戦線〔PFDJ〕)を中心とするアスマラ攻撃に参加し、臨時政府にも参加した。EPLFと協力関係にあったが独立前に協力関係を打ち切られ、1998年にエチオピア・エリトリア国境紛争が勃発するに至ってエチオピアの政権与党・エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)と和解した。1999年の反政府協力組織・エリトリア国民同盟(Alliance of Eritrean National Forces ,AENF・Eriteran National Alliance,ENA)が結成された際、当時議長であったアバデラ・イドリースが代表についた。以降常に反エリトリア政府・反PFDJの立場をとっている。本拠地はエリトリア政府の対外関係によって左右され、エチオピア・エリトリアの戦争中は両国の国境地帯、2002年の停戦後はスーダン南西部の難民キャンプ、2004年スーダンとエリトリアが和解した後は難民キャンプの移動に伴い再びエチオピア・エリトリアの国境付近やAENFのメンバーだったエリトリア革命民主戦線(Eritrean Revolutionary Democratic Front,ERDF)の勢力圏内に転じている。イギリス、スウェーデンにも活動拠点を持つ。エリトリアは事実上の一党独裁制の為、現在もなお非合法組織とされている。エリトリア解放戦線革命評議会 フレッシュアイペディアより)

  • クナマ族

    クナマ族から見たスーダンスーダン

    クナマ族(クナマぞく、Kunama)は、エチオピアおよびスーダンに住む部族。クナマ族 フレッシュアイペディアより)

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