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セルビアから見たジェノサイド
代わってドイツに対しての抵抗運動を展開したのは、ヨシップ・ブロズ・チトーをはじめとするパルチザンである。チェトニックはドイツ軍への抵抗をしない代わりに、クロアチア独立国でセルビア人がジェノサイドの対象となっていることへの報復としてクロアチア人やボシュニャク人に対する大量虐殺を始めた。これに対して、パルチザンは多民族混成の抵抗運動であり、市民への虐殺をせず、ドイツ軍に対して粘り強く抵抗した。一時はウジツェに解放区を作るなど目覚しい戦果を挙げ、やがて多くの市民がパルチザンに加わっていった。パルチザンは、ソ連軍が侵攻してくる前に、自力でユーゴスラビアから枢軸勢力を駆逐し、ユーゴスラビア民主連邦を成立させた。(セルビア フレッシュアイペディアより)
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セルビアから見たマーシャル・プラン
ユーゴスラビアを自力で解放することに成功したチトーは、国王ペタル2世の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、独自にユーゴスラビアの再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、次第に共産主義の盟友であったソビエト連邦との路線対立が拡大し、1948年にはコミンフォルムを追放された。それ以降、セルビアを含むユーゴスラビア連邦は、ソビエト連邦の支配からはずれ、他の東側諸国とは一線を画するようになる。ユーゴスラビアは西側諸国との良好な関係を築き、マーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、ソ連と対立していた。1953年にチトーがユーゴスラビアの大統領となり、ソ連と一線を画した社会主義政策を展開した(自主管理社会主義)。また、非同盟運動を推進し、第三世界の主要国としての地位を確立した。(セルビア フレッシュアイペディアより)