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タイ王国から見たラーマ9世
1940年11月23日に南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こし、1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約をヴィシー政権と締結して領土を拡大した。太平洋戦争が勃発すると、日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に 国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。(タイ王国 フレッシュアイペディアより)
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タイ王国から見たセーニー・プラーモート
一方、20世紀前半までにシャム/ が国名として定着したが、1939年6月24日、時の首相ピブーンは国名をタイに変更する。これはシャムがチャオプラヤー川流域のタイ族を指す外国からの言葉であり、タイ族の自称である「タイ」に変更するのが適切であったと説明されるが、一方でチャオプラヤー川流域以外のタイ族をも取り込もうとしたピブーンの意図も読み取れる。その後、セーニー内閣時の1945年9月17日いったん国名はシャムに戻されたが、返り咲いたピブーンにより1949年5月11日、国名がタイに戻された。時は下ってサリット政権時代に、議会で国名にタイがふさわしいかどうか議論がなされたが、結局は国名を維持することになった。しかし現在でも、タイという名前に反対する知識人が見られる。(タイ王国 フレッシュアイペディアより)
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タイ王国から見たサマック・スントラウェート
2007年8月には、2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月23日に下院選挙が実施され、2008年1月に選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン元首相派の文民であるサマック・スントラウェート元バンコク都知事が首相に就任した。しかし、同年9月に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、サマック首相の民放テレビ出演を違憲として、サマック首相を失職させるという司法クーデターを起こした。10月にはタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、再び憲法裁判所は、前年からの選挙違反を表向きの理由にして、与党の国民の力党に解党命令を出し、ソムチャイ首相も失職させた。これにより、同年12月、野党の民主党が総選挙を経ずに政権を獲得し、アピシット・ウェーチャチーワが首相となる。(タイ王国 フレッシュアイペディアより)
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タイ王国から見たソンティ・ブーンヤラッガリン
2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン・チナワット政権が崩壊した。クーデターは国王の介入により収拾され、直ちに陸軍大将のソンティ・ブーンヤラッガリンを首班とする軍事政権が発足した。同年、暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが首相に着任した。(タイ王国 フレッシュアイペディアより)