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タイ王国から見たプリーディー・パノムヨン
ラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)が即位したあと、1932年にはプリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。(タイ王国 フレッシュアイペディアより)
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タイ王国から見たプレーク・ピブーンソンクラーム
一方、20世紀前半までにシャム/ が国名として定着したが、1939年6月24日、時の首相ピブーンは国名をタイに変更する。これはシャムがチャオプラヤー川流域のタイ族を指す外国からの言葉であり、タイ族の自称である「タイ」に変更するのが適切であったと説明されるが、一方でチャオプラヤー川流域以外のタイ族をも取り込もうとしたピブーンの意図も読み取れる。その後、セーニー内閣時の1945年9月17日いったん国名はシャムに戻されたが、返り咲いたピブーンにより1949年5月11日、国名がタイに戻された。時は下ってサリット政権時代に、議会で国名にタイがふさわしいかどうか議論がなされたが、結局は国名を維持することになった。しかし現在でも、タイという名前に反対する知識人が見られる。(タイ王国 フレッシュアイペディアより)
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