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高橋大輔 (フィギュアスケート選手)から見たニコライ・モロゾフ
2004-2005シーズンには、大学入学に伴う環境の変化やプレッシャーや、シーズン前半のアジア選手権で右足首の神経の炎症を起こしたことによりモチベーションが低下し、スケートをやめたいとさえ思っていた。しかし、全日本選手権で6位に沈んだことで気持ちがふっきれ、年明けのユニバーシアードで優勝、四大陸選手権では3位となった。世界選手権では、ともに出場した本田武史が予選演技中の怪我で途中棄権したため、翌年のトリノオリンピックの日本男子出場枠が?橋1人の順位にかかる大きなプレッシャーの中で演技することになった。ショートプログラム(以下、SPと略)までは7位と健闘したものの、フリースケーティング(以下、フリーと略)では冒頭の4回転ジャンプ転倒を皮切りにことごとく失敗を連発してしまい、総合15位に終わる。この結果、トリノオリンピックの日本男子出場枠は最小の1枠となる(総合10位以内なら2枠だった)。シーズン終了後、コーチ・振付師をニコライ・モロゾフに変えるとともに、トレーナーのカルロス・アビラ・デ・ボルバにつき、フィジカル面とステップの強化に力を注ぎ始めた。(高橋大輔 (フィギュアスケート選手) フレッシュアイペディアより)
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エカテリーナ・グボズコーワから見たニコライ・モロゾフ
エカテリーナ・グボズコーワ(、、1981年8月4日 - )は、ロシア、モスクワ出身の女性フィギュアスケート選手(アイスダンス)。パートナーはティミール・アラシャノフ、ニコライ・モロゾフ。(エカテリーナ・グボズコーワ フレッシュアイペディアより)
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荒川静香から見たニコライ・モロゾフ
2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し佐野稔に師事、振付はニコライ・モロゾフに依頼した。2002年末の第71回全日本選手権で3位になった後、年明けはユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝。さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初進出のグランプリファイナルでは4位となった。世界選手権直前に、リチャード・キャラハンの指導を受けることになった。5年ぶりに出場した世界選手権では、SPでスピンに入る前に氷の溝にはまる不運で転倒、さらに肩を脱臼するアクシデントに見舞われたが、スピンをしながら肩をはめ直し最後まで滑りきった。フリーでは3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループと高難度のコンビネーションを決め、初の入賞となる総合8位となった。(荒川静香 フレッシュアイペディアより)
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ハビエル・フェルナンデスから見たニコライ・モロゾフ
2008年、当時17歳だったフェルナンデスはニコライ・モロゾフのサマートレーニングキャンプに参加し、モロゾフにアメリカに渡ってトレーニングをしないかと誘われたことをきっかけに、ニュージャージー州ハッケンサックに拠点を移し、モロゾフに師事する。その1年半後、モロゾフがアメリカを離れてロシアに帰ることにしたため、モスクワやラトビア、イタリアなど世界各地のリンクを数か月ごとに移動しながら練習することになり、拠点の定まらない生活に疲弊したと語っている。(ハビエル・フェルナンデス フレッシュアイペディアより)
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安藤美姫から見たニコライ・モロゾフ
トリノオリンピック後からニコライ・モロゾフにコーチを変えた。モロゾフの指導により食事のメニューも細かくして体を絞り、大人の女性の魅力を出すための表現力を磨き、スピンやステップでも更に得点を稼げるように技術を高めた。3月には門奈裕子のもとで基礎からジャンプを作り直した。スケートアメリカでは、SP、フリーともに3回転ルッツ-3回転ループを決め、ノーミスの素晴らしい演技を披露する。フリーでは技術点で70点を超え、当時の歴代最高得点を記録。総合得点でもパーソナルベストを約20点更新し1位となり、GPシリーズ初優勝を果たす。2戦目のエリック・ボンパール杯では2位となり、GPシリーズランキング1位でGPファイナルへの出場権を獲得した。(安藤美姫 フレッシュアイペディアより)
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ジェニファー・ウェスターから見たニコライ・モロゾフ
テキサス州ダラスに生まれ、11歳でスケートを始めた。2003年、アメリカで新たなパートナーを探していたダニイル・バランツェフとカップルを結成し、ニコライ・モロゾフに師事。2人は2006年に結婚することになる。2005-2006シーズンからは全米選手権にも出場を果たし、入賞するまでになったが、国際大会への出場はダニイル・バランツェフが以前所属していたロシア側が拒否したために2007-2008シーズンまで待たなければならなかった。(ジェニファー・ウェスター フレッシュアイペディアより)