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ハンセン病から見たヘロドトス
英語の「leprosy」や近代西洋語の同等の語、また日本語の「レプラ」は、古代ギリシア語で 「 (leprā)」、ないしはその借用語であるラテン語の「lepra」に由来するが、その語史は次のように辿ることができる。「 (lepos) 皮・鱗」→「 (leperos) 皮・鱗を持った〜」→「 (lepros) 鱗状の〜、かさぶた状の〜、レプラの〜」→ その女性形「 (leprā)」。この語の意味を巡っては議論が絶えない。少なくとも古代ギリシアにおいては、語源に見えるように「皮膚が鱗状・かさぶた状になる症状群」を指し、乾癬や湿疹など幅広い皮膚疾患がこの名で呼ばれていた。ハンセン病の症状を含んでいたかどうかについては諸説ある。紀元前5〜4世紀の古い使用例として、ヘロドトス『歴史』〈1巻138節〉、アリストファネス『アカルナイの人々』〈724行〉などがあり、またヒポクラテス集成の中では『予知論 II』〈43章〉などがある。(ハンセン病 フレッシュアイペディアより)
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ハンセン病から見たウイリアム・ジョップリング
ウイリアム・ジョップリングはハンセン病の分類で有名である。ロンドン大学卒。戦前はハンセン病にも興味があったようであるがアフリカで内科・産婦人科をやり、戦時中は軍医であった。戦後の1947年、36歳の時にロンドンに帰り、大学院で熱帯医学を専攻した。その後、1950年に戦後ロンドン郊外の古城に作られたハンセン病病院「ジョーダン (Jordan) 病院」の住み込み院長となり、そこで病理医のリドリー (Ridley) と共にRidley-Jopling分類を完成した。1962年にはらい反応も研究した。ジョップリングのエピソードとして「1950年代の初めにErythema nodosum leprosumの命名者が知りたくて尋ねて回り、東京からの客人によりそれは村田茂助であると分かった」ということがある。ジョップリングは、彼が独力で書いた教科書Handbook of Leprosyでも有名で、この教科書は5版を数える。その他、Leprosy stigmaについての論文やThe Starに書かれた自叙伝も有名である。(ハンセン病 フレッシュアイペディアより)
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ハンセン病から見た後藤昌文
光明皇后のらい患者湯浴み伝説もあるが、ハンセン病患者に入浴させることは普通の考えであろう。日本においては草津の湯がハンセン病に有効と言われ多くの患者が集まった。後藤昌文・後藤昌直父子 はハンセン病の入浴療法を考案しハワイの国王の要請でハワイまで行き指導して回った。ダミアン神父も習ったという。しかし、ハンセン病には有効でなかったため、この治療法は普及しなかった。全生病院では、 風呂場外科、という言葉もある。初代看護婦であった石渡婦長は、光田健輔と相談して、船のようなものに下に車が付いていて、寝ながら入浴できるものを風呂場に持ち込んできてそれに患者を入れて体を洗ったという。(ハンセン病 フレッシュアイペディアより)