382件中 71 - 80件表示
  • パース (軽巡洋艦)

    パース (軽巡洋艦)から見たフィジーフィジー

    1939年7月26日、パースはアーストラリアへ向けてポーツマスを出航した。8月4日、ニューヨークに到着し、8月16日まで滞在。8月21日、ジャマイカのキングストンに到着。8月23日に出航しパナマ運河へ向かうが戦争勃発の可能性が高まったことでオーストラリアへは向かわずカリブ海に留まることになった。第二次世界大戦開戦後、パースはカリブ海でドイツ商船の逃走阻止などに従事した。10月にはイギリスに向かうKJ3船団を途中まで護衛した。11月22日、パースはパナマ運河を通過し太平洋に出た。11月25日、ココ島でカナダ海軍の駆逐艦オタワとレスティグーシュに給油を行った。11月29日にパナマ運河を通過しパースはカリブ海に戻った。1940年2月29日、キングストンを出航。3月2日にパナマ運河を通過しオーストラリアへ向かった。3月17日にタヒチ島パペーテに到着。3月25日にフィジーのスバに着き、3月31日にシドニーに到着した。パース (軽巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

  • ダニー・フィリップ

    ダニー・フィリップから見たフィジーフィジー

    西部州レンドバ島の町、ロクルの出身。母は急性灰白髄炎のため、生後2日でこの世を去った。1973年にベイカマ高等学校卒、1977年にフィジーのフルトン大学卒、1980年にニュージーランドのヴィクトリア大学ウェリントンに留学。英語教師、言語学者になった。ダニー・フィリップ フレッシュアイペディアより)

  • 爆戦

    爆戦から見たフィジーフィジー

    爆装した零式艦上戦闘機の攻撃により敵艦船を撃破する構想は、フィジー・サモアへ侵攻する計画のFS作戦で本格的に検討された。目的は敵空母の発着艦機能を奪うこと、400海里(約740km)以遠の距離から零戦の長距離進出能力を活かしてアウトレンジ攻撃をかけ、味方空母の保全を図ることであった。1942年(昭和17年)10月より後には、標的艦「摂津」を使用して降下爆撃が実施された。1943年(昭和18年)3月12日、爆装した零式艦上戦闘機による降下爆撃研究の結果が報告された。研究は零戦の両翼下に60kg爆弾を装備し、急降下爆撃と緩降下爆撃を行ったもので、降下角度45度以上の急降下爆撃には不適であるが、緩降下爆撃を行った場合には35%から40%の命中率を記録した。また爆弾と増槽の投下に際し、6G以内であれば機体強度に問題なく引き起こしが可能だった。60kg爆弾装備の零戦による出撃は、艦爆戦力が減少したソロモン戦線でしばしば行われた。戦訓として、戦闘機用爆弾投下器が性能低下を少なからず起こすため、改善する必要のあることが指摘された。爆戦 フレッシュアイペディアより)

  • 商船旗

    商船旗から見たフィジーフィジー

    File:Civil Ensign of Fiji.svg|フィジー商船旗商船旗 フレッシュアイペディアより)

  • ナッシュビル (軽巡洋艦)

    ナッシュビル (軽巡洋艦)から見たフィジーフィジー

    ナッシュビルは11月22日に真珠湾に帰投し、12月24日に出港してフィジーに向かった。エスピリトゥサント島に到着後、ナッシュビルは第67任務部隊の旗艦となった。ガダルカナル島への輸送船団を護衛したあと、ナッシュビルはへレナ (USS Helena, CL-50) およびセントルイス (USS St. Louis, CL-49) とともに1943年1月4日夜、ニュージョージア島ムンダの日本軍航空基地に対して艦砲射撃を行った。次の数ヵ月間、日米両軍はニュージョージア島とコロンバンガラ島を巡って戦い、ナッシュビルもこの攻撃に加わった。5月18日夜、ナッシュビルはコロンバンガラ島のビラ飛行場に対して艦砲射撃を行っていたが、前部砲塔で装薬が爆発し、18名が戦死して17名が負傷した。ナッシュビル (軽巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

  • ローリー (軽巡洋艦)

    ローリー (軽巡洋艦)から見たフィジーフィジー

    1941年12月7日の真珠湾攻撃の時、ローリーは真珠湾の中でも北寄りのF-12 錨地に係留中だった。最初の攻撃で、ローリーに2本の魚雷が向かってきた。1本は前方をかすめ去ったが、もう1本がローリーの中央部に命中し、ローリーは左舷側に傾斜した。転覆の恐れを避けるべくローリーから重量物を投棄し傾斜を回復させる一方で、ローリーの射手は5機の日本機を撃墜。この勇敢な射手のおかげか、ローリーは辛うじて転覆を免れた。翌日、駆逐艦母艦ホイットニー (USS Whitney, AD-4) がローリーに横付けし、12月22日には仮修理のため海軍工廠に曳航された。その後、本格的修理のため1942年2月21日に真珠湾を出港し、5隻の輸送船団を護衛を行いつつ、3月1日にサンフランシスコに到着。メア・アイランド海軍造船所での修理を終えたローリーは、7月23日にサンフランシスコ湾を出港し、第15任務部隊に加わってハワイとサモアおよびフィジー間の護衛任務に就いた。ローリー (軽巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

  • ジェームス・B・ランパート

    ジェームス・B・ランパートから見たフィジー諸島フィジー

    第二次世界大戦の開始とともに、ランパートは南太平洋のフィジー諸島、ソロモン諸島航空工兵大隊を指揮した。1944年1月、第14軍団工兵隊の技術将校に任命され、1945年3月ルソン島の戦い、マニラ人民解放軍に参加した。戦中、彼は銀星章、勲功章、青銅星章を受章した。戦後は原子力発電所の開発、またアメリカ空軍特殊武器計画にも携わり、マンハッタン計画の責任者を務めたレズリー・グローヴス空軍中将に仕えた。ジェームス・B・ランパート フレッシュアイペディアより)

  • マハン (DD-364)

    マハン (DD-364)から見たフィジーフィジー

    マハンは1943年1月9日に南太平洋に戻り、ニューヘブリディーズ諸島、ニューカレドニア、フィジー間での船団護衛任務に就く。3月にはニューカレドニアでの哨戒任務を開始した。4月に船団護衛任務を再開し、ガダルカナル島へ巡航、続いてオーストラリア海域での任務を始める。ニューギニアに移動し、マハンは7月2日からミルン湾を拠点として活動を始めた。続く3ヶ月間は戦闘が続いた。8月9日にはナッソー湾への上陸作戦に参加し、22日と23日にはフィンシュハーフェンへ砲撃を行う。22日のオーストラリア軍部隊の上陸時、マハンは日本軍機3機を撃墜した。その後9月4日から8日までラエへの上陸部隊を支援した。マハン (DD-364) フレッシュアイペディアより)

  • グリッドレイ (DD-380)

    グリッドレイ (DD-380)から見たフィジーフィジー

    1942年9月25日にダッチハーバーを出航し、グリッドレイはハワイ海域でサラトガ任務部隊に合流、その後はフィジーおよびニューヘブリディーズ諸島海域で戦闘艦艇および非武装艦艇の護衛任務に従事した。1942年12月、グリッドレイはヌメア沖でソロモン諸島での激戦を支援する空母任務部隊に補給を行う給油艦シマロン (USS Cimarron, AO-22) を護衛する。グリッドレイは7月13日にソロモン諸島のパーヴィス湾へ活動の拠点を移し、16日にはパラスコ湾で沈没した軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) の生存者を運ぶ高速輸送艦を護衛した。また、モーリー (USS Maury, DD-401) と共にガダルカナル島からニュージョージア島のタンバツニに上陸する歩兵用上陸舟艇を護衛した。7月25日には上陸地点海岸の敵施設に対して砲撃を行い、上陸部隊の支援を行った。8月10日にはベラ湾で他の6隻の駆逐艦と共に日本軍の上陸用艀を破壊し、その後はソロモン諸島でサラトガ (USS Saratoga, CV-3) を8月25日まで護衛した。グリッドレイ (DD-380) フレッシュアイペディアより)

  • デイル (DD-353)

    デイル (DD-353)から見たフィジーフィジー

    1941年12月14日から1942年3月17日まで、デイルは空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) とヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) の護衛任務に従事した。両艦は3月10日にニューギニアのサラマウア、ラエに攻撃を行った。デイルは真珠湾に戻ると護衛任務および訓練に従事し、5月11日にオーバーホールのためメア・アイランドに向かった。6月5日にサンフランシスコを出航し、任務部隊に復帰すると7月6日から8月17日まで活動した。その後ガダルカナル島侵攻に備えたビティレブ島、フィジー、エファテ島、エスピリトゥサント島、ニューヘブリディーズ諸島間での船団護衛任務に就く。デイルは激戦の繰り広げられたガダルカナル島で8月18日から9月21日まで上陸を支援し、増援部隊を乗せた船団の護衛を行った。その後は真珠湾で護衛および訓練任務に11月10日まで従事した。デイルは真珠湾に入港する戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) およびサウスダコタ (USS South Dakota, BB-57) を護衛し、続いてサンフランシスコまでサウスダコタの護衛を継続した。デイル (DD-353) フレッシュアイペディアより)

382件中 71 - 80件表示