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上村健一から見たフィリップ・トルシエ
熊本県生まれ。小学校5年時に広島県福山市に転居。小中学校の1年先輩に家本政明がいた。広島県立松永高等学校から1993年にサンフレッチェ広島に入団。同期入団は、盧廷潤、アンドレイ、安部雄大、若松賢治。レギュラー選手では一番の若手で、当時もみ上げを伸ばしてスーツを着用し、ルパン三世のような格好をしていたのでよく先輩にいじられていた。Jリーグ発足直後から試合にも出場、当初は相手に強力なエースストライカーがいる時、それをマンマークで抑える時に出番があった。特に1994年優勝したサントリーシリーズ天王山となった清水エスパルス戦で、清水のエース・トニーニョをハードマークし、仕事をさせなかった。しかしこの後靭帯断裂で負傷した。回復後の1996年にはアトランタオリンピックにサッカー五輪日本代表として出場し、ハンガリー戦でロスタイム直前に交代出場をすると、直後にコーナーキックからのファーストタッチで得点を挙げる。その後もクラブで守備の要としての活躍が認められ、2001年にはフィリップ・トルシエがフランスに大敗後、守備の立て直しに着手した日本代表に招集され4月のスペイン戦でA代表デビュー。しかし試合終盤に負傷交代しチームが失点して敗戦すると、トルシエは会見で「敗戦の責任は最後まで責任を全うできなかった上村にある」と発言している。その後のコンフェデレーションズカップなどにも召集され、Aマッチ計4試合に出場したが、2002年日韓ワールドカップには惜しくも選出されなかった。ヘディングが強く闘志溢れる選手だったが、両膝を悪くしてから足の速いフォワードに振り切られることが多くなった。同年11月のコンサドーレ札幌との最終戦は、上村のワンマンショーのような試合であった。(上村健一 フレッシュアイペディアより)
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伊東輝悦から見たフィリップ・トルシエ
フィリップ・トルシエ監督の下では運動量と守備的意識を買われ、ボランチではなく主に右サイドの要員として起用される事が多かった。しかし常に望月や明神や波戸らと併用され、レギュラーとして定着した時期はなかった。2000年のカールスバーグカップ・メキシコ戦では初のゲームキャプテンを任せられるなど、トルシエ監督から絶大な信頼を得る(合宿終了後にゲームキャプテンから一言と言われた際、寡黙な性格のためか「お疲れ様でした」の一言しか言わなかった)。しかし、2002 FIFAワールドカップ日本代表には、負傷から復帰した直後のタイミングとなってしまい選出されなかった。(伊東輝悦 フレッシュアイペディアより)