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フィリピンから見たニック・ホアキン
20世紀後半の文学は英語、タガログ語、その他のフィリピン地方言語などの様々な現地語で書かれた。著名な作家としては、『』(1961年)でフィリピン人のアイデンティを題材にしたニック・ホアキンや、英語で『』五部作(:en:Po-on (novel)、:en:The Pretenders (novel)、:en:My Brother, My Executioner、:en:Mass (novel)、:en:Tree (novel))、『』などを著しフィリピン近現代史を題材にしたF・シオニル・ホセ、タガログ語で『 (Maynila: Sa Mga Kuko ng Liwanag)』(1968年)を書いたエドガルド・M・レイエスらの名が挙げられる(後に映画化された『:en:Mga Kwento ni Lola Basyang』)。(フィリピン フレッシュアイペディアより)
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フィリピンから見たミゲル・ロペス・デ・レガスピ
西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。(フィリピン フレッシュアイペディアより)
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フィリピンから見たジョセフ・エストラーダ
モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年MNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年MILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る。(フィリピン フレッシュアイペディアより)
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フィリピンから見たフェルディナンド・マルコス
1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領が体制を築いた。アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、。(フィリピン フレッシュアイペディアより)
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フィリピンから見た独立
その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法で自治を認めが成立。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった。1934年アメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた。(フィリピン フレッシュアイペディアより)