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ワニノから見たフェリー
1940年代を通じて、ワニノはウラジオストクとともに、オホーツク海の北のマガダン港と大陸本土とを結ぶ連絡船の発着港であり、コルィマ鉱山のグラグ(強制収容所)へ送られる政治犯たちもワニノからマガダン港へ送られている。こうした政治犯は、マガダンとヤクーツクを結ぶ国道の建設や国道沿いの金鉱などでの労働に従事させられた。スターリン時代以後も、ソ連最東端の地域への最短航路を提供するワニノ港の重要性は高まり続け、1989年には港の貨物取扱量は1,150万トンに達した。また1973年以来、サハリンのホルムスク(かつての真岡付近)とワニノとを結ぶ砕氷船によるフェリー(ワニノ・ホルムスク鉄道連絡船)が運航し、サハリンとロシア本土とを結ぶ連絡路となっている。ソ連崩壊後は経済の混乱でワニノ港は縮小し、2005年の取扱量は620万トンに減っている。一時期、ホルムスクを経由し小樽に向かう国際フェリーが運航されていたが、燃料費の高騰を理由に2005年で休航となった。(ワニノ フレッシュアイペディアより)
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四国から見たフェリー
明石海峡大橋開通後、鳴門海峡に架かる大鳴門橋の交通量は瀬戸大橋を上回るようになり、新たな四国の玄関としての側面を持ち始めている。3ルートから四国入りする場合、兵庫以西(中国・九州)と兵庫以東(前者以外)の人口を比べると17%:83%であり、圧倒的に神戸鳴門ルートを選択する場面が多くなる。神戸淡路鳴門自動車道の全通直後では、鳴門IC付近にある徳島トラックステーションを利用するトラックの増加が目立った。また京阪神方面への高速バスは一端は年々増加、屈指のドル箱路線までに成長していたが、近年はETC大幅割引の影響で減便・廃止が出始めている。近年では、四国の高速道路網が充実してきたことから、松山市、高知市や高松市を出発して京阪神や首都圏へ向かう高速バスや農産物を積んだトラックが、鳴門を通過するケースが顕著になってきた。今後、徳島県内の高速道路の整備や4車線化が進めば、鳴門が四国の玄関口としてさらに重要な場所になる可能性もある。なお、宇高連絡船が開設される以前の本四間の移動は、大阪府の深日から船で淡路島の洲本市へ渡り、淡路鉄道などを利用して洲本から福良まで淡路島内を移動、福良から船やフェリーで鳴門へ渡るというのが最も一般的なルートであった(福良・鳴門間は日本最古のフェリー航路)。そういう意味では「鳴門が新たな四国の玄関口になった」というよりも、「鳴門が再び四国の玄関口になった」といえる。(四国 フレッシュアイペディアより)
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長崎県道200号薄香港線から見たフェリー
かつて(1991年まで)薄香港からは生月島へのフェリーが就航していて、フェリーの接続道路としての利用が多かった。(長崎県道200号薄香港線 フレッシュアイペディアより)
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佐世保市敬老特別乗車証から見たフェリー
黒島・高島の在住者については、本乗車証と併せて敬老交通交付金が交付される。離島であるため、本土の相浦港までのフェリー運賃を一定額補助する形となる(相浦港からは市営バス・西肥バスの路線がある)。(佐世保市敬老特別乗車証 フレッシュアイペディアより)
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岡山県道195号神島外港線から見たフェリー
神島大橋が架橋されるまでは、笠岡市の神島地内(神島内浦)と横島地内(瀬戸)の間を渡し舟(瀬戸の渡し)で往来していた。その後、1956年(昭和31年)2月から県道神島外浦寄島線フェリーボードが就航し、本土から貨物自動車の渡船が可能となる。ところが、乗り換え時間や待ち時間、天候に左右されることが多く、問題となり架橋計画が持ち上がる。笠岡市や地元民からの強い要望によって、1966年(昭和41年)から岡山県が神島大橋の架橋工事を開始し、1970年(昭和45年)3月31日に神島大橋が開通。現在の路線経路となる。(岡山県道195号神島外港線 フレッシュアイペディアより)
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瀬戸丸 (仁堀連絡船)から見たカーフェリー
そのような状態で、仁堀航路は自動車運送(カーフェリー)に活路を開こうとして、1964年(昭和39年)12月、大島連絡船から転籍してきた大島丸(1961年就航)で自動車運送を開始する。大島丸は1965年(昭和40年)に安芸丸に改称後、1966年(昭和41年)には自動車搭載場を拡張し、2t車8台に増強する。この自動車運送が好評になったため、仁堀航路で最初の新造船が建造されることとなる。(瀬戸丸 (仁堀連絡船) フレッシュアイペディアより)