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2009年の日本プロ野球から見たブライアン・シコースキー
12月28日 - 西武が前ロッテのブライアン・シコースキーと、新外国人選手のダーマル・ブラウン(登録名は「ディー・ブラウン」)の獲得を発表。(2009年の日本プロ野球 フレッシュアイペディアより)
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ランディ・ルイーズから見たブライアン・シコースキー
5月28日に楽天へ入団。6月1日に一軍登録され、その日の阪神戦でスタメン出場。6月5日の横浜戦で9回表に代打で出場すると、山口俊からレフト場外に逆転決勝2ランを放ってヒーローインタビューを受ける。翌日の巨人戦でも代打本塁打を放ち、長打力をみせつけた。しかし、外角低めの変化球への弱さや引っ張り一辺倒の打撃を見抜かれると、打率が1割台に落ち込むなど日本の投手への適応に苦労した。その後、徐々に日本の野球への適応性を伸ばし始めたが、三振の多さは解消されず、シーズン途中加入ながらリーグワースト5位となる114三振を喫し、守備でも11失策という有様だった。但し、西武の涌井秀章からは11打数7安打で打率.636、3本塁打と得意にした。特に9月4日の対戦では、5点ビハインドの9回裏無死1塁で、完投勝利目前の涌井から二塁打を放ってチャンスを拡大し、打線の反撃を呼んだ。その後、打線が奮起して同点に追いつくと、なおも2死満塁の場面で再び打席が回り、ブライアン・シコースキーから来日初のサヨナラ安打を放った。シーズン終了後の12月1日、球団から翌シーズンも引き続き契約を行うことが発表された。また、同6日には背番号を「42」から「3」に変更することも発表された。(ランディ・ルイーズ フレッシュアイペディアより)
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ジェフ・クベンカから見たブライアン・シコースキー
2001年シーズン開幕直後、左腕投手が不足していた山本功児監督率いる千葉ロッテマリーンズに入団した。4月29日の対西武ライオンズ戦で初登板初先発を果たすも、8人の打者に対してアウト2つのみ、3失点でなおも二死満塁となったところでKOされた(味方が一度は逆転したため勝敗つかず)。その後、中継ぎで2度登板するが5月4日に二軍落ち。以降はネイサン・ミンチーとブライアン・シコースキーの陰に隠れ、一軍に上がることなく9月24日に解雇された。なお、入団を検討する際に使われた資料ビデオは撮影場所が原っぱのようなところで、見ても評価のしようがなかったという。(ジェフ・クベンカ フレッシュアイペディアより)
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ダン・ミセリから見たブライアン・シコースキー
解雇当日にミセリは東京ドームに姿を見せ、荷物をまとめたあと井原敦国際部長(現在は読売新聞東京本社編集局運動部長)と別れの握手を交わした。報道陣のインタビューに対しては「喉が痛いから話すことはない。もう行かなくてはならない」と応じ、足早に球場を後にした。その直後にミセリは妻子と共に浅草観光に打って出る。浅草寺を参拝したり人力車に乗るなど浅草を満喫。「仲見世リ(なかみせり)」の見出しで報道された。観光中、ファンにサインをねだられた際、「これが最後だ」と言って殴り書きしたサインは「M」の1文字であった。インタビューに対しては「俺はミセリじゃない。質問は受け付けない」と返り討ちにした。ただ雷門をバックにした家族との3ショット写真を要求されると笑顔で応じた。浅草観光後も一週間ほど日本に滞在したという。この一件には反発も多く、当時のチームメイトのブライアン・シコースキーやタフィ・ローズも苦言を呈したほどであった(特にシコースキーは「他人の悪口を言っているのを聞いたことがない」と言われているほど良い人柄であったため、ミセリの態度は相当悪かったと言える)。また、漫画家のやくみつるも、「日本観光のオプションツアーとして、読売ジャイアンツ体験入団があった」と皮肉った。(ダン・ミセリ フレッシュアイペディアより)
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ジェフ・ウィリアムスから見たブライアン・シコースキー
はセットアッパー専任となり、藤川球児、久保田智之とともに、JFKと呼ばれる阪神の最強リリーフ陣を形成、再び優勝に貢献。75試合に登板し、2004年にブライアン・シコースキーが記録した外国人選手年間最多登板数の62試合を更新。80試合に登板した藤川とともに史上初となるチーム70試合登板コンビとなる。同年11月に持病の左膝半月板の手術を受けた。WBCオーストラリア代表に内定していたものの、手術後であるために辞退。(ジェフ・ウィリアムス フレッシュアイペディアより)