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ブルーインパルスから見た松島基地
1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となったため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した。(ブルーインパルス フレッシュアイペディアより)
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ブルーインパルスから見た百里飛行場
1994年10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成され、翌1995年7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演したが、この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示されたため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した。(ブルーインパルス フレッシュアイペディアより)
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ブルーインパルスから見た昭和天皇
この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し、これをたたき台にしてOOCが開会式典の構成を策定した結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことは出来なかったという。また、カラースモークも青・黄・黒・緑・赤の5色で五輪を描くように準備したが、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前であった。開会式の前日は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた。このため、ブルーインパルスのパイロットも明日は雨だと早合点して、酒を多く飲んでしまった。しかし、開会式の当時は快晴で、ブルーインパルスのパイロットは二日酔いのままで本番に臨むことになった。(ブルーインパルス フレッシュアイペディアより)
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ブルーインパルスから見たF-15 (戦闘機)
その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより、ブルーインパルスは2012年度内に松島基地へ帰還することになった。2013年3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される第6飛行隊のF-2・第304飛行隊のF-15との編隊飛行訓練が行なわれたが、ブルーインパルスがTAC部隊の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれたが、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという。この時の課目には、本来なら2011年3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた。(ブルーインパルス フレッシュアイペディアより)
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ブルーインパルスから見た源田実
一方、1931年に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった。ちょうど1933年に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあったが、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していったが、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。(ブルーインパルス フレッシュアイペディアより)