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アメリカ合衆国の歴史から見たペルー
また、米国内の日系アメリカ人を敵性国民として、残らず砂漠地帯に建設した強制収容所に送った。このため、日系人の若者は信頼を回復する為に軍へ志願入隊し、欧州戦線の激戦区に送られた。日系人部隊の戦いぶりは他の部隊を凌駕し、大戦で最多の勲章を受章した。この活躍により、米国での日系人の信用は徐々に回復して行った。日系人や在住日本人はカナダやペルーなどの国でも同様に収容所へ送られ、終戦まで過ごした。このような措置は、イタリア系やドイツ系の国民に対しては行われず、あからさまな人種差別感情が背景にあった。(アメリカ合衆国の歴史 フレッシュアイペディアより)
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木綿から見たペルー
The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition によれば、紀元1世紀にアラブ人商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコをイタリアやスペインにもたらした。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のことである。ファスチャン織りやディミティ織りは14世紀にヴェネツィアやミラノで織られていたが、当初は縦糸にリンネルを使っていた。イングランドに15世紀以前に輸入された木綿布はごくわずかだが、その一部はろうそくの芯に使われた。17世紀にはイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらした。アメリカ先住民は木綿を紡いで衣服や染色したタペストリーを作っていた。ペルーではインカ帝国以前の墓から木綿の布が見つかっている。染色や織り方の面で、ペルーやメキシコの綿織物は古代エジプトの墓から見つかったものとよく似ている。(木綿 フレッシュアイペディアより)
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日系人から見たペルー
近代日本人の海外移民は、第二次世界大戦以前は一時的な出稼ぎの要素が強く、「故郷に錦を飾る」ことを目標とする者が大半であった。そこで、この時期の移民にはおおむね国籍の離脱・変更といった行為が伴っていない。一時的な出稼ぎと移民を区別すべきという意見もあるが、おおむね海外移民の嚆矢とされるのは、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、明治元年(1868年)にいわゆる「元年者」と呼ばれるハワイへの移民153名が、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)ながら渡航したのが最初である。その後政府公認として、1881年のハワイ国王カラカウアの来日を契機にした1885年のハワイ移民を皮切りに19世紀末以降本格化、第二次世界大戦後暫くの間迄日本政府も積極的に関わって行われた。移民先は主にアメリカ州で、1893年のグアテマラ移民をはじめとして、1897年に35名がメキシコへ渡った「榎本移民」をきっかけに組織的移住が始まり、アメリカ合衆国(特にカリフォルニア州とハワイ州)とブラジル(特にサンパウロ州とパラナ州)が圧倒的に多い。1908年、日本政府と合衆国政府の間で紳士協定が結ばれ、日本からの移民制限、ハワイから米国本土への移民禁止措置が行われ、事実上既に移民した者の親族以外の渡航が不可能となり(親戚でなくとも、移民との結婚を前提に、いわゆる「写真花嫁」などとして渡航した女性はいた)、さらに1924年、排日移民法が施行され、いかなる形の新規移民も認められなくなって以降、第二次世界大戦前には、先述のブラジルのほか、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイやチリへの移民も盛んに行われた。一時期はフィリピンへも移民が行われた。(日系人 フレッシュアイペディアより)