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  • ペルー

    ペルーから見たアルベルト・フジモリ

    このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、ノーベル文学賞作家のマリオ・バルガス・リョサを破って「変革90」を率いた日系二世のアルベルト・フジモリが勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、1992年4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、アメリカ合衆国や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。1994年からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として1996年にトゥパク・アマルー革命運動による日本大使公邸占拠事件が発生したが、こうした中でも、1998年にはエクアドルとの国境紛争に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たアラン・ガルシア

    1980年には選挙によって民政に移り、再び人民行動党のベラウンデ・テリー政権が誕生した。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、センデロ・ルミノソなどのゲリラ勢力が力をつけてきた。また、1984年にはキューバ派のトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が都市を中心に武装闘争を始める。1985年、当時32歳だったアラン・ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。アラン・ガルシアは反米、反帝国主義を叫び、当初は国民の支持を背景に国民主義を掲げ、IMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、経済政策の大失敗により、深刻な経済後退を引き起こし、GNPは20年前の水準に逆戻りし、失業率は実に66%を記録した。さらには対外債務の累積は150億ドルにも達しており、これはメキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど1000億ドル以上の債務を抱えていたその他の中南米諸国に比べると、かなり小さい額であったが、当時南米の貧しい小農業国に過ぎなかったペルーにとっては莫大な金額で、ペルーの輸出収入30億ドルの5倍、外貨準備高15億ドルの10倍に匹敵した。そのため債務と利払いの返済の停滞による国際金融社会との関係の悪化よる深刻な経済危機を招き、国家破綻寸前に陥った。苦境に立たされたガルシア政権は「国民を飢えさせてまで、支払うつもりはない」として、債務の支払いを輸出収入の10%以内に限定するという「10%原則」と呼ばれる一方的な措置を取った。これは事実上の徳政令であったことから、これが決定打となり、更に国際金融機関との関係を極度に悪化。そのためにIMF、世銀のような国際金融機関や主要先進諸国からの資金の流入が停止し、国内の経済困難に一層拍車をかけ、国際的信用が失墜したペルーの通貨は暴落。インフレ率8000%というハイパーインフレを記録し、通貨は紙切れ同然となり、1990年には完全な国家破産状態に陥る。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たマリオ・バルガス・リョサ

    このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、ノーベル文学賞作家のマリオ・バルガス・リョサを破って「変革90」を率いた日系二世のアルベルト・フジモリが勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、1992年4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、アメリカ合衆国や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。1994年からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として1996年にトゥパク・アマルー革命運動による日本大使公邸占拠事件が発生したが、こうした中でも、1998年にはエクアドルとの国境紛争に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たアントニオ・ホセ・デ・スクレ

    18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス革命以来のヨーロッパでの混乱を背景に、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入し、兄のジョゼフ・ボナパルトを国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起きスペイン独立戦争が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラからマテオ・ガルシア・プマカワが蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが、結局プマカワも破れ、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で独立を果たすことになった。1821年7月28日にはるばるラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、ホセ・デ・サン・マルティンの指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、アントニオ・ホセ・デ・スクレがアヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ (エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。しかし、それが直ちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、アグスティン・ガマーラは、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)として独立を果たしたアルト・ペルーを併合しようと軍を送ったが、スクレ大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たナスカの地上絵

    1000B.C.頃 - 200B.C.頃、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ北部にモチェ文化がA.D.100頃 - A.D.700頃、現トルヒーヨ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1頃 - A.D.600頃に、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たアマゾン川

    ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(国土の約60%)である。このように三つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には熱帯であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たコンキスタドール

    ペルー(Perú)という言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ地峡のサン・ミゲル湾付近を支配していたビルー(Birú)という首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶになり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後スペイン人のコンキスタドールによってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たマチュ・ピチュ

    ファイル:Peru_Machu_Picchu_Sunrise_2.jpg|マチュ・ピチュの歴史保護区 - (1983年、複合遺産)ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見た新評論

    浅香幸枝「リマ──副王たちの都から混沌の都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』 国本伊代、乗浩子編、新評論、1991年9月。ISBN 4-7948-0105-X。ペルー フレッシュアイペディアより)

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    ペルーから見たフアン・ベラスコ・アルバラード

    こうした状況の中で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデターによりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や第三世界外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、キューバやチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ人民連合のサルバドール・アジェンデ大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこの頃である。ペルー フレッシュアイペディアより)

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