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主食から見た松茸
日本社会における米に対する思い入れは、例えば能登半島に伝わるユネスコ無形文化遺産の奥能登のあえのことなどにもみられ、水田から田の神を迎え、この神の表象として種籾俵を祀るなど、米は食料を超えた神聖な存在であった。また、レーション(行軍用携帯食料)でも発揮され、戦闘糧食I型・II型は世界的にも珍しい米飯を主体としたメニュー構成である。なお、給食や病院食などでは栄養学的な見地から現在でも白米のご飯ではなく麦を混ぜた麦飯で出される場合がある。粥は、茶粥を食する習慣がある一部の地方を除き病人食として見なされ、かて飯も季節の料理として、あるいは食卓に変化を持たせるため、えんどう飯、栗飯、松茸飯などの炊き込みご飯や混ぜご飯として食べられることが多い。(主食 フレッシュアイペディアより)
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マツ材線虫病から見たマツタケ
しかし1950年代の燃料革命や化学肥料の普及によって、肥料や燃料としてのマツ林の落枝落葉の需要が減少して林内に放置されたため、土壌が富栄養化してアカマツには不適当な環境になり始めた。マツタケの大幅減産もこの頃(1960年代前半)である。また、マツ材は強度が高いため屋根を支える梁などの建築用材としても生産・利用されてきたが、素材生産量は1957年の1551万立米をピークに減少に転じ、さらに1960年の木材輸入自由化後は価格競争にさらされ、1975年にはほぼ1/4にまで減少し、2004年にはわずか82万立米にまで落ち込んだ。このようなマツを巡る環境の下、防除の努力にもかかわらずマツ枯れ被害は1970年代から再び増加に転じ、1979年には被害材積が243万立米を記録している。以後毎年100万立米前後の被害が続いてきた。現在は保安林や景勝地などの保全と被害の北上を阻止することに重点をおいた防除が行われている。2015年現在、被害の北端は東北地方北部に達しており、日本海側が青森県南西部の深浦町付近、太平洋側はやや進行が遅く岩手県の中北部の八幡平市・滝沢市付近、三陸海岸沿いはさらに進行が遅く大船渡市付近となっている。(マツ材線虫病 フレッシュアイペディアより)
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ツキヨタケから見たマツタケ
日本の菌学界に初めて紹介された時点では、樹上生であるとともに発光性を有することから、Pleurotus olearius DC(=Omphalotus olearius:後述)と同定されたが、これは誤りであった。やや時代が下がって、この誤りがただされ、柄がかさの一端に側生することから、古典的な定義による Pleurotus 属(ヒラタケ・ムキタケ・スギヒラタケ・ワサビタケ・シジミタケ・チャヒラタケなど、短い柄がかさの一端に生じるか、あるいはほぼ無柄で、かさの一端で朽ち木などの基質に直接に付着して生育する)に置かれ、Pleurotus noctilucens Inoko の学名が提唱された。しかし P. noctilucens の名は、その時点ですでに別種の発光きのこ(フィリピン産:現在では、Nothopanus noctilucens (Lév.) Sing. の学名が用いられている)に与えられていたために無効とされた。その後、日本産の新鮮な生標本に基づいてさらに詳しく検討されるとともに、やはり新種であると判断されて Pleurotus japonicus の学名が与えられた。のち、柄に不明瞭なつばを備えることをおもな理由として、古典的定義による Armillaria 属(マツタケ やヌメリツバタケなどを含む)に移されたが、胞子がほぼ球状をなすことや、ひだの組織の実質が類整型(Subegular:菌糸がほぼ平行に並んで配列し、互いに著しくもつれ合うことはない)の構造を有すること、あるいは子実下層がよく発達することなどを重視し、Pleurotus や Armillaria からは独立させられ、新属 Lampteromyces が設立されるとともに L. japonicus の組み合わせが提唱された。(ツキヨタケ フレッシュアイペディアより)