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岩村明憲から見たロベルト・ペタジーニ
ロベルト・ペタジーニが1999年にマークしたチーム史上タイ記録に並ぶ44本塁打(リーグ3位)、103打点(リーグ3位)と好成績をマーク。OPSは自己最高の.966を記録したが、リーグ4位の.921を記録した2002年はストライクゾーン改正もあり打低年、2004年は打高年だったこともありリーグ9位、同様に打率も.300を記録したもののリーグ19位と順位はそれほど伸びなかった。また、シーズン173三振の日本人新記録とセ・リーグ新記録、歴代5位の記録を作るなど、不名誉な記録も残した。同年に行われた日米野球では、チーム打率が.221に沈む中岩村は打率.440、長打率.517を記録するなど好成績を収めた。(岩村明憲 フレッシュアイペディアより)
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ボブ・ホーナーから見たロベルト・ペタジーニ
最終的には故障で規定打席に達しなかったものの、93試合で打率.327、31本塁打、73打点を記録した。外国人選手が規定打席不足で30本塁打以上を記録したのは、この年のホーナーとのラルフ・ブライアント(近鉄)、のオレステス・デストラーデ(西武)、のロベルト・ペタジーニ(巨人)、のウラディミール・バレンティン(ヤクルト)らがいる。なお、8月9日平和台球場での対阪神17回戦で7回表の先頭打者としてマット・キーオから18号本塁打となったはずの中越え同点ソロアーチを放ったが、続く杉浦享が左飛に倒れて一死となった後、雷雨で49分間の中断を経て、21時18分にコールドゲームが成立し、6回で試合終了となったため、幻の本塁打が1本ある。18号本塁打の打ち直しは8月12日広島での対広島16回戦で行われ、またもや7回表の先頭打者での打席で、投手交代したばかりの川端順が投じた肩口から入る内角のパームボールを叩いた左翼へのソロ本塁打であった。また、8月30日横浜での対大洋21回戦の3回表二死満塁の場面で松本豊の直球を捉えた左中間への23号本塁打は来日して唯一の満塁弾であり、10月2日神宮での対阪神24回戦の5回一死一塁で猪俣隆の高めのカーブを捉えて左翼フェンスぎりぎりに運んだ31号2ランが日本での最後の本塁打であった。佐々木信也はホーナーの本塁打を「所属球団が勝利至上主義ではなかったため、チームの勝利に拘泥せず、伸び伸びと打った雄大なアーチ」と評した。(ボブ・ホーナー フレッシュアイペディアより)
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ロバート・ローズから見たロベルト・ペタジーニ
チームは3位に終わったものの、同年の153打点は小鶴誠(松竹)の161打点()に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり打点王を獲得、同年のリーグ2位のヤクルトのロベルト・ペタジーニとは41点差を付け、1963年に野村克也(南海)が記録した39点差を上回る新記録となった。更に右打者では当時史上最高の打率.369を記録し首位打者を獲得、また192安打は当時セ・リーグ歴代1位の記録となり最多安打も獲得、本塁打もリーグ3位の37本を記録するなど、いずれも驚異的な打撃成績を残した。この年のセ・リーグMVPは優勝した中日の野口茂樹だったが、ローズも3位チームの選手であるにも関わらず、MVPの投票で5位につけた。(ロバート・ローズ フレッシュアイペディアより)
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榎本喜八から見たロベルト・ペタジーニ
入団時、打撃とは対照的に守備は不得手であった。そのため当時の一塁手だった西本幸雄(榎本と同じく左投げ)は、榎本が自分のポジションを奪うかもしれない選手だったにも関わらず、榎本に徹底的に守備をたたき込んだといわれる。その甲斐あってか、榎本は2年目の1956年に一塁手におけるシーズン守備機会とシーズン刺殺数の日本記録を樹立した。1965年にはシーズン補殺数122で一塁手の日本記録(1999年にロベルト・ペタジーニが124補殺を記録して更新。現在はパ・リーグ記録)を残し、守備得点22を記録。1967年8月から1968年9月にかけては1度も失策せず、1516守備機会無失策の日本記録を残した。1968年シーズンも9月に記録した失策ひとつだけで終え、シーズン一塁手守備率.9992の日本記録を樹立している。(榎本喜八 フレッシュアイペディアより)