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青森県営サッカースタジアムから見た三内丸山遺跡
1994年1月19日に開催された日本招致委員会実行委員会で、石原俊実行委員会会長より「日本が開催国となるためには各地域におけるスタジアム整備が重要なポイントになってきているので、各開催候補地にあっては所定の計画に従って整備してもらいたい」と発言がなされ、青森県は専用スタジアム建設に方針を変換した。平成6年度予算で青森県単独事業としてサッカー専用スタジアム建設の方針が示された。当初の建設地としては三内丸山遺跡の発掘調査がなされている県営野球場の建設地に隣接した場所への整備が計画された。同年6月22日の県議会定例会で、スタジアム建設は1996年6月のFIFA理事会で開催地が日本に決定され、その後日本国内の開催地が決定された後に着工することが答弁された。その後の発掘調査で、三内丸山遺跡が、それまでの縄文時代の定説やイメージを翻すような大規模な遺跡であることが明らかにされ野球場の建設は中止となり、サッカー場の建設予定地にも試掘により遺跡が埋まっている可能性が高いと見て建設予定地をそのまま保存することが決定された。その後、建設予定地として青森県総合運動公園の拡張、荒川地区、横内地区、桑原地区、野内地区、新城地区の6箇所が調査検討されたが、様々な理由から運動公園予定地が候補とされた。(青森県営サッカースタジアム フレッシュアイペディアより)
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青森市歴史民俗展示館 稽古館から見た三内丸山遺跡
雪国の暮らし、生活用具、仕事用具、津軽のこぎんざし、南部菱刺、津軽塗、民間信仰、アイヌの文様・工芸などに特徴がある。民具、民芸に関する展示は全国的に見ても充実している部類に入っており、アイヌのタマサイなどのコレクションは北海道以外では最も優れた質量を誇っていた。稽古館にかかわりのある人物のひとりで、館長を務めた在野の民具研究家田中忠三郎は柳宗悦らの民藝運動の流れを汲んでいる。また、三内丸山遺跡出土品をはじめとする青森市の埋蔵文化財の展示室、そして青森空襲と戦後の復興についての展示室もあるなど、約1万6000点の資料が収蔵されていたが、2006年1月31日を以て閉館された。(青森市歴史民俗展示館 稽古館 フレッシュアイペディアより)
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高床式倉庫から見た三内丸山遺跡
日本では縄文時代の遺構から出土例がみられ、三内丸山遺跡(青森県)で縄文時代中期(紀元前3000年 - 2000年)の祭殿に用いられたと見られている高床建築の遺構が出土し、また桜町遺跡で縄文時代中期末(紀元前2000年)の高床式建物の建築部材が出土している。弥生時代には、穀物を蓄える倉庫として一般に普及したと考えられており、代表的な遺構としては弥生時代の登呂遺跡(静岡県)や弥生後期の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)がある。銅鐸(香川県で出土と伝わる)や銅鏡(佐味田宝塚古墳〈奈良県〉)・土器(唐古遺跡〈奈良県〉)に高床建築が描かれているが、倉庫としての建築であるかは不明である。(高床式倉庫 フレッシュアイペディアより)