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里見義豊から見た三浦半島
永正15年(1518年)、父・義通が危篤となると家督を継ぐ。だが、義通の弟実堯が義豊15歳になるまでは陣代(後見人)として家督を預かることになった。この頃、対岸の三浦半島に進出してきた北条氏に対抗するため、大永6年(1526年)に品川・鎌倉(鶴岡八幡宮の戦い)を実堯とともに攻撃して当主としての器量を示した。だが、15歳を過ぎても実堯は実権を義豊に返還しなかった。また、重臣正木通綱(時綱)が実堯と接近して家中で大きな発言力を持ち始めた事に他の重臣の不満も高まった。このため、天文2年義豊は稲村城の実堯と正木通綱を襲撃して殺害する(通綱は脱出したものの傷の悪化で病没したという説もある)。だが、実堯の長男里見義堯は「仇討ち」と称して、通綱の遺児である正木時茂とともに叛旗を翻す。義豊が義堯を破ると、義堯も反撃して義豊を一時上総国内に追い払うなど戦いは一進一退だった。だが、翌年に入り義豊は武田氏の真里谷恕鑑(信清)らの協力を得て安房国に復帰したものの、犬掛の合戦で大敗して自害に追い込まれてしまった。享年21と伝えられている(天文の内訌)。(里見義豊 フレッシュアイペディアより)
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ハマユウから見た三浦半島
東アジアから南アジアにかけて温暖な地域に分布する。日本では、房総半島南部、三浦半島、伊豆半島南岸、渥美半島、紀伊半島南岸、四国太平洋岸、山口県南西岸、九州沿岸、壱岐など、主に黒潮に直面した沿岸部の砂丘で自生している。ハマオモトは、黒潮の影響を受けて南方から侵入する生物の典型的な分布域を示していると考えられ、その分布北限は年平均気温15℃の等温線および年最低気温の平均-3.5℃の等温線とほぼ一致する。小清水卓二は1938年にこれを一つの分布境界線と見なし、ハマオモト線(Crinum Line)と呼んだ。イネの害虫・サンカメイガの分布北限より提唱された分布境界線である本州南岸線も年最低気温の平均-3.5℃の等温線とほぼ合致しており、ハマオモト線と本州南岸線はほぼ同一のものと見なされている。この、年最低気温の平均-3.5℃の等温線を分布の北限とする植物としては、ナチシダ、イヌガシなどが知られている。(ハマユウ フレッシュアイペディアより)
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横須賀空襲から見た三浦半島
神奈川県南東部の三浦半島に位置し東京湾に面する横須賀には、1853年(嘉永6)年に江戸幕府の勘定奉行・小栗忠順やフランス公使・レオン・ロッシュの主導で横須賀製鉄所が開設されると、明治維新後は明治政府に引き継がれ横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え軍艦の建造を担った。 さらに1884年(明治17年)12月15日に日本海軍の横須賀鎮守府が設置されたことを契機に軍港都市として発展し、1907年(明治40年)2月15日に市制が施行された。1937年(昭和12年)からの第三次海軍軍備補充計画および1939年(昭和14年)からの第四次海軍軍備補充計画に伴う艦艇建造ラッシュにより市内は活況を見せたが、戦局の悪化に伴い1944年(昭和19年)の空母「雲龍」と空母「信濃」を最後に大型艦の建造を停止。急造型の駆逐艦や潜水艦や海防艦、特攻兵器の生産に転換した。(横須賀空襲 フレッシュアイペディアより)
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飯岡助五郎から見た三浦半島
文化7年(1807年)、相模国に地方巡業に来た友綱部屋の親方・友綱良助に大力を見出され、懇意にしていた名主・永島庄兵衛に相談して自身の名前を公郷村の人別帳から抹消した後、友綱部屋に入門し、相撲取りの道を歩む。しかし、親方の良助が急死したことで1年も経たず力士になる夢をあきらめて廃業。同年、当時地引き網で大漁景気に沸いていた九十九里浜に流れて、上総国作田浜の網元・文五郎の漁夫となる。更に文五郎死去の後は、鰯漁の豊漁地である下総国飯岡(現在の千葉県旭市飯岡)に出稼ぎに出て、この地に定着した。相撲の修業時代に磨きをかけた大力で、飯岡の玉崎明神祭礼の奉納相撲で名前を売り、この地に流れ着いて横暴を働くやくざ者を叩きのめして男を上げて、当時銚子から飯岡にかけて広大な縄張りを持っていた銚子の五郎蔵の代貸となった。更に文政5年(1822年)には五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、正業である飯岡の網元の事業も成功させて、名実共に房総半島の大親分となる。飯岡の漁港を整備する事業にも着手し、台風や大時化で漁船が頻繁に遭難し、飯岡の成人男子人口が壊滅しかかった時には、生まれ故郷の公郷村や三浦半島一帯から漁師の二男や三男を大量に移住させ、また護岸工事にも積極的に取り組むなど、飯岡の復興にも尽力した。(飯岡助五郎 フレッシュアイペディアより)
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対馬 (防護巡洋艦)から見た三浦半島
1939年4月1日に除籍され雑役船に編入、横須賀海兵団練習船に指定され、繋留して使用。翌年4月1日、廃艦第10号と仮称され、横須賀海兵団練習船、さらに航海学校応急練習船として使用されたが、1944年中ごろ三浦半島大津海岸で雷撃訓練標的として使用し漏水により沈没した。(対馬 (防護巡洋艦) フレッシュアイペディアより)
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杉山神社から見た三浦半島
名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。なお、三浦半島の三浦郡葉山町上山口には旧相模国で唯一の杉山神社があり、さらに同神社の「元宮」と呼ばれる社も周辺の山中に鎮座しているが、旧武蔵国における杉山神社との関係は不明である。この他、茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州系忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている。当時の都筑郡は開拓者である忌部氏の勢力が強く、多くの古墳や環濠集落が作られるなど武蔵国府の支配外にある一つの小国を形成しており、古東海道も横断する物資の集散地であった。ただし、杉山神社の始まりが忌部勝麻呂によるものとされることについては『新編武蔵風土記稿』で記載されているものの、他に文献資料などが残っておらず根拠としては乏しいとされる。(杉山神社 フレッシュアイペディアより)