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田中努から見た三菱総合研究所
東京都出身。東京都立日比谷高等学校を経て、1959年、東京都立大学法経学部卒業。同年、経済企画庁入庁。調整局産業経済課長、環境庁長官官房国際課長、経企庁経済研究所次長、調整局・統計局審議官などを経て、1989年に調査局長、1990年、物価局長、1991年、経済企画審議官、1993年5月から1995年6月まで事務次官を務めた。高村正彦経済企画庁長官時代、その任期中、経企庁所管・海外経済協力基金と日本輸出入銀行との合併案(のちに両行合併にて国際協力銀行となる)が当時の新党さきがけ・武村正義蔵相から提案された。退官後は、中央大学総合政策学部教授、三菱総合研究所顧問など。(田中努 フレッシュアイペディアより)
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JAビルから見た三菱総合研究所
2002年頃から汐留(港区)や品川インターシティ(港・品川区)がビジネス街として開発され、大手町・丸の内地区から流出する企業が現れた。大手町・丸の内地区では敷地の空きがなく、事業活動を止めずに建て替えることは困難であったが、2003年に大手町合同庁舎1・2号館跡地約13,400m2が売却されることになり、大手町地区連鎖型再開発の一環として、(旧)JAビルおよび隣接地の日経ビル・経団連会館を換地して建替えられることになった。(旧)JAビル・日経ビル・経団連会館跡地には日本政策投資銀行ビル・公庫ビル・新公庫ビル・三菱総合研究所ビルの機能が移転した。その後連鎖再開発は3次まで行われ、大手町合同庁舎の代わりとなる国有地(大手町二丁目地区再開発)は、2018年に郵政ビル(旧郵政省庁舎)と交換される予定となっている。(JAビル フレッシュアイペディアより)
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さよならジュピターから見た三菱総合研究所
当時まださほど精度の高くなかったCGも積極的に使用された。モニタ表示画面の殆どはパソコンで製作したものだが、撮影当時、世界に数台しかない三菱総合研究所所有のスーパーコンピュータ「Cray-1」で製作された物も一部含まれている(小松と親交のあった同研究所の牧野昇の計らいでコンピュータが空いている定時終了後の時間帯に無償で借用できた。CG製作ソフトは同研究所の予算で購入してもらい、所員もボランティアとして手伝っている)。これらはCGだけでなく、コンピュータ自体についても専門家ではない素人同然のイオの若手スタッフが作った物である。アメリカのCG製作者に発注した木星の爆発シーンは、NASA所有のボイジャー探査機の画像デジタルデータを基に、日本映画で初めてCGを実景として使用したものである。またビデオ合成も検討されたが、当時の解像度ではスクリーンにかけると「まるでスダレ」(小松談)だったのでボツとなった。(さよならジュピター フレッシュアイペディアより)
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