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社会教育実践研究センターから見た上野恩賜公園
社会教育実践研究センターは、社会教育に関する調査および研究を行うほか、社会教育に関する各種の講習などを行っている。所在地は、東京都台東区上野公園地区である。(社会教育実践研究センター フレッシュアイペディアより)
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新聞縦覧所から見た上野恩賜公園
1867年(慶応3年)に最初の縦覧所が設置され、1870年(明治3年)頃から普及。1877年(明治10年)頃に設置のピークを迎えたという。当時は、新聞自体の販売網が整っていなかったこと、また、定期刊行物の体をなしていなかった(不定期発行の)新聞もあり、一箇所でまとめて複数の新聞を読める施設は庶民から重宝された。東京市内でも、公的施設として上野恩賜公園の園内(花園稲荷神社の近辺?)に設置されたほか、全国の主要都市に設置されたほか、公的施設以外でも峡中新聞(現在の山梨日日新聞の前身)のように新聞社自ら社内で閲覧させたケースや、書店が私設の閲覧所として機能していた函館市のようなケースも存在する。明治時代中期になると、都市部では新聞販売店網が整備され、新聞の入手が容易になると徐々に姿を消し始め、やがて公的施設は図書館に吸収されていった。(新聞縦覧所 フレッシュアイペディアより)
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横浜水族館から見た上野恩賜公園
大連商工会議所議員で水族館の運営に詳しい平田包定が、1928年(昭和3年)に東京市(当時)で開催された大礼記念博覧会に併設されていた水族館を横浜市に移設することを提唱。賛同した横浜市と水産会(現在の漁連)との協議で、元町・磯子・杉田の三候補地の中から磯子区の臨海部の市電用埋立地、現在の磯子警察署の裏手に決定した。施設費として、平田が材料の他1万円を、水産会が1万5千円を負担した。なお、当時の公務員上級者の初任給は75円であった。1928年(昭和3年)8月11日に開館。花火大会と重なったこともあり、周辺の海水浴客を含め18万人の観光客がこの地を訪れた。ただ、技術的には未熟であり、営業期間は5月から9月の間だけで、冬季は閉館していた。当時の「土地法典」では、「館内には塩水および淡水のタンクが置かれ、数百の海や川の魚を飼育し」ていたと記されている。1929年度(昭和4年度)の決算では入場者5,200人、入場料大人20銭・子ども10銭に対し経費は4,880円かかっており、赤字であった。集客のため活動写真を上映したり珍しい動物を公開したりと経営努力を重ねたが、1930年(昭和5年)秋に短い歴史に幕を下ろした。なお、同年代の施設としては、東京の上野恩賜公園内に1882年(明治15年)に小規模の観魚室が、1929年(昭和4年)に水族室が開設されている。(横浜水族館 フレッシュアイペディアより)