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  • 斎院

    斎院から見た賀茂御祖神社賀茂御祖神社

    伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣い、歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入するが(角田文衞説では、斎院御所のあった場所は現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという)、この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。斎院 フレッシュアイペディアより)

  • 賀茂氏

    賀茂氏から見た下鴨神社賀茂御祖神社

    八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族。代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。賀茂氏 フレッシュアイペディアより)

  • 糺の森

    糺の森から見た賀茂御祖神社賀茂御祖神社

    糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)は、京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。糺の森 フレッシュアイペディアより)

  • 京都市立下鴨小学校

    京都市立下鴨小学校から見た下鴨神社賀茂御祖神社

    当時は下鴨神社公文所に置かれていた。京都市立下鴨小学校 フレッシュアイペディアより)

  • 鴨祐為

    鴨祐為から見た賀茂御祖神社賀茂御祖神社

    姓は賀茂氏の支流梨木(なしのき)氏。雷岡隠士と号した。下鴨神社の神官を務めた鴨祐之の孫として生まれた。後に正四位下上総介に叙せられている。若い時に西川祐信に就いて絵を学び、楚々とした肉筆美人画を描いた。後に冷泉為村に和歌を学ぶ。祐為は早吟をもって世に知られており、その生涯を通して10万首を超える和歌を詠んだといわれ、その多作ぶりは家集『鴨祐為歌集』の中に線香3寸を立て、その燃え尽きる間に50首を詠じたという例を見出せることからも納得できる。一日に1000首を詠むという企ても、何度か行われたようである。代表作として安永9年(1780年)刊行の歌集『一日千首』の他、歌集『百首百返和歌』、『詠草(えいそう)』、紀行文『かひの雫』、『大和路紀行』、歌学書『祐為歌訓』などが挙げられる。享年62。鴨祐為 フレッシュアイペディアより)

  • 康和地震

    康和地震から見た賀茂御祖神社賀茂御祖神社

    土佐の記録は『広橋本兼仲卿記』の紙背文書に見られ、これは賀茂御祖神社に伝わった文書で土佐から提出されたものと推定され、「土佐国潮江庄康和二年〔ママ〕正月□□四日地震之刻国内作田千余町皆以成海底」とある。これは白鳳地震の『日本書紀』による記述「土左国田苑五十余万頃 没為海」と類似し、宝永地震、安政南海地震および昭和南海地震でも見られた南上りの地殻変動による高知平野付近の沈降と推定される。賀茂御祖神社は寛治4年(1090年)に荘園として潮江荘(高知市)を設置したが、この地震で田園1000余町(約10km2)が海没した際、潮江荘も被害を受け、翌年の康和2年(1100年)に国司に申請し、国衛領の高岡郡吾井郷津野保を代替地に譲り受け、津野荘が展開することとなった。康和地震 フレッシュアイペディアより)

  • 鏑矢

    鏑矢から見た下賀茂神社賀茂御祖神社

    (ひきめや)とは蟇目を取り付けた矢のこと。鏃を付けず、蟇目の出す音で邪を払い場を清める事を目的とし、祭礼神事で使われる。古くは誕生蟇目・産屋の引目・射越の引目などと称し、胎児の健康、成長祈願や家屋の屋根を越えるように蟇目矢を放ち邪を払い、魔を退散させるなどした。現在では小笠原流に『蟇目の儀』が伝わっており、下賀茂神社や住吉大社、一部弓道大会の開会などで行われている。蟇目の儀は、最近では国際弓道連盟設立記念大会にて執り行われた。鏑矢 フレッシュアイペディアより)

  • 手水舎

    手水舎から見た賀茂御祖神社賀茂御祖神社

    Image:Chozubachi.jpg|賀茂御祖神社(京都市左京区)手水舎 フレッシュアイペディアより)

  • 唐菓子

    唐菓子から見た下賀茂神社賀茂御祖神社

    小麦粉をこねて成形し、油で揚げたもの。奈良時代から名称が見られる。『和名類聚抄』には藤の蔓(つる)のようであると記載されている。奈良の春日大社・京都の上賀茂神社、下賀茂神社の神饌(しんせん)として存在し、現在は糯米粉(もちごめこ)に蜜を加えて捏(こ)ね、腕輪形にして油で揚げて作られる。唐菓子 フレッシュアイペディアより)

  • 竹原

    竹原から見た賀茂御祖神社賀茂御祖神社

    竹原の名は、平安時代に下鴨神社の荘園として記録が残り、市街は中世の末頃から港を控えた市場集落として形成された。江戸時代、正保3年(1646年)に海岸沿い(現在の本川掘右岸)を干拓し新田開発が行われたが、土壌に塩分が多く耕作には不適であった。そこで赤穂から製塩の技術者を招き塩田に転換、慶安3年(1650年)に製塩を開始すると産出に成功し、承応元年(1652年)までに塩田は拡大、竹原に大きな富をもたらした。享保年間末期には、他産地の成長に伴って市場は供給過剰となり塩の値段は下落したものの、有力な産地としての地位を保った。製塩には塩分の濃縮のため大量の薪が必要であり、周辺の森林の減少を招くほどの盛業であった。竹原 フレッシュアイペディアより)

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