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命婦から見た下鴨神社
江戸時代には命婦は4・5名で、女蔵人(にょくろうど)・御差(おさし)とともに構成した御下(おしも)と呼ばれる下級女房層を構成した三職を合わせると定員7名となった。命婦の上首は「伊予」の名称で呼ばれ、命婦のみならず御下全体を統括する役目を担い、江戸時代には壬生官務家出身者が選ばれる例となり、次第に形式的な地位となっていった。次席は「大御乳人(おおおちのひと)」と呼ばれ、本来は当代の天皇の乳母を務めた人に対する待遇であったが、後には熟練の女官として掌侍の上首である勾当内侍を補佐して、宮廷内外と勾当内侍との間の取次や事務処理を行った。このため、次第に大御乳人の出身も局務家である押小路家、上北面である松室家、下鴨社社司である梨木家の3家出身者が占めるようになっていった。大御乳人は当代の天皇との関係で任命されたため、天皇が代替わりをすると伊予は職に留まるが、大御乳人は職を退く例であった。それ以外の命婦は上野・越後・能登といった国名で呼ばれ、伊予や大御乳人を補佐するとともに、当時の命婦の職務であった朝の天皇御座所の清掃、天皇の食事の補助、夕方の天皇皇后の入浴補助を行った。(命婦 フレッシュアイペディアより)
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