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中村靖から見た与謝野馨
その後、20代後半で会社を設立し、建設資材・輸入貿易業(「世界の料理ショー」含む映画/TV番組等)を営むと同時に、松田竹千代文部大臣秘書官、東龍太郎東京都知事特別秘書役、父・梅吉の大臣秘書官等を経て、1967年1月、第31回衆議院議員総選挙に東京都第9区から無所属で出馬し落選。1976年12月、父梅吉の後継者として第34回衆議院議員総選挙に東京都第5区から自民党公認で出馬しトップ当選(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。1986年7月の第38回総選挙まで連続5期当選、1990年まで約15年間、衆議院議員を務めた。主に行政改革/文教の政策領域で活躍。(中村靖 フレッシュアイペディアより)
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原田昇左右から見た与謝野馨
静岡中学、静岡高校を経て、1946年東京帝国大学第二工学部卒業後、農林省(現農水省)に入省。後に運輸省に転じる。1974年に運輸大臣官房審議官を最後に退官、1976年の衆院選に西村直己の後継者として旧静岡1区から出馬し初当選(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。以後連続当選9回。自民党では宏池会に所属。通産政務次官を経て、1989年に第1次海部内閣の建設大臣として初入閣。衆議院予算委員長なども務めた。(原田昇左右 フレッシュアイペディアより)
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平城遷都1300年記念事業から見た与謝野馨
副会長 - 麻生太郎、伊吹文明、高村正彦、古賀誠、谷垣禎一、津島雄二、中山太郎、二階俊博、町村信孝、山崎拓、与謝野馨(平城遷都1300年記念事業 フレッシュアイペディアより)
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2007年自由民主党総裁選挙から見た与謝野馨
また、いわゆる「麻生クーデター説」が安倍の辞意表明当日に放送された日本テレビ『NEWS ZERO』での報道、小泉チルドレンのひとりである片山さつきの発言 などで流布され始めた。これは、第1次安倍改造内閣組閣前のアジア諸国外遊中に安倍が人事権を麻生と内閣官房長官の与謝野馨に奪われ、農林水産大臣・遠藤武彦の辞任問題やテロ特措法の延長問題などが、安倍を無視して麻生・与謝野ライン主導で決定されていくことに安倍が絶望して辞意を表明したとする説である。このクーデター説は選挙後に全くのデマであったことが明らかとなるが、このことは麻生有利の流れを決定的に転換することとなった(→中川秀直も参照)。(2007年自由民主党総裁選挙 フレッシュアイペディアより)
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