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東京マラソン2010から見た中井洽
前日に起こったチリ地震による津波の日本への到達予想時間がレース開催時間と重なり、ゴール周辺の東京湾岸にも津波警報が発表されたことから、レースの開催が懸念されたが、実行委員会は津波の予想高さとゴール周辺の海抜を勘案してレースを決行。この判断に対して中井洽防災担当大臣が3月2日の記者会見で「警報を出しても意味がないということになると、次回の警報が信用されなくなる」と、実行委員会の判断が津波警報の信用性を損ねかねないとの懸念を示した。これに対し、石原慎太郎東京都知事は「大臣がああいうばかなこと言わない方がいい。東京が十全な努力で判断をしてやってるんだ」と反論している。なお、この津波警報の影響もあり、当日東京湾周辺でマラソン応援者を搬送する予定だった屋形船が全便欠航となっている。(東京マラソン2010 フレッシュアイペディアより)
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大内啓伍から見た中井洽
1976年、第34回衆議院議員総選挙に民社党公認で旧東京2区(定数5)から立候補し、得票数3位で初当選した(同期当選に青山丘・中井洽・中野寛成・米沢隆らがいた)。旧東京2区は石原慎太郎(自由民主党)や上田哲(日本社会党)、鈴切康雄(公明党)らがしのぎを削る激戦区であり、大内も党幹部でありながら毎回苦戦を強いられた。初当選後間もない1977年11月、当選1回ながら佐々木良作委員長の下で民社党政策審議会長に起用され、1985年に塚本三郎書記長の委員長昇格に伴い、後任の書記長に就任した。1984年、沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。1986年の第38回衆議院議員総選挙では、撚糸工連事件で贈収賄の疑惑が持たれ、民社党を離党した横手文雄の記者会見に同席した影響からか、旧東京2区では立候補者6人中6位で、最下位で当選した日本共産党の岡崎万寿秀に約3,500票及ばず、大内のみが唯一落選した(この総選挙は衆参同日選挙だったため、立候補者が少なかった)。落選後も党書記長に留まっていたが、1989年2月に塚本委員長がリクルート事件への関与を疑われ、辞任。塚本執行部の総退陣により、大内も書記長を辞任する。(大内啓伍 フレッシュアイペディアより)
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サッカー朝鮮民主主義人民共和国女子代表から見た中井洽
日本で予定されていた東アジアサッカー選手権2010について、当時日本の拉致問題担当大臣・国家公安委員長を務めていた中井洽の発言が問題となり、本来シードされて出場権を得ていた北朝鮮は最終的に出場を辞退した。(サッカー朝鮮民主主義人民共和国女子代表 フレッシュアイペディアより)
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