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日中関係史から見た中国共産党
北京政府打倒を目指していた革命家の孫文は1919年に広州で中国国民党を決起して、張作霖ら中国東北部を割拠している北洋軍閥の征伐と反帝国主義運動に取り掛かることになる。1920年、中国艦隊は尼港事件で赤軍と戦闘中の日本軍兵営を砲撃する。一方、ロシア革命により成立したソビエト連邦の傘下にあったコミンテルンの革命援助によって陳独秀らは1921年に上海で中国共産党を結成する。コミンテルンの後ろ盾もあり、1924年に国民党は第一次国共合作で共産党を迎え入れ、外資系の工場でのストライキを通して反帝国主義運動を全国へ波及させ、孫文は神戸を訪れて大アジア主義講演も行った。国民党は広東省の広州で国民政府を立ち上げて、孫文が病死するという不幸を乗り越えて、1926年に北伐を開始する。国民革命軍は蒋介石に率いられて広東省から出発し破竹の勢いで南京・上海を占拠するが、南京事件、漢口事件などにより日本人を始めとする外国領事館、居留民への攻撃が行われたため、国民党右派の蒋介石は上海クーデターを起こしてプロレタリアート的な共産党員の抑圧を図り、第一次国共合作は崩壊した。(日中関係史 フレッシュアイペディアより)
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国共内戦から見た中国共産党
結成当初の中国国民党と中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。両者は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした。この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月の中国共産党も、第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン(本名ヘンドリクス・スネーフリート)指導で、国共合作が方針となった。(国共内戦 フレッシュアイペディアより)
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中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議から見た中国共産党
中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議(ちゅうごくこくみんとうだいごきだいさんじちゅうおうしっこういいんぜんたいかいぎ)は通常三中全会と呼ばれ、中国国民党が1937年2月15日から同月21日まで行った会議である。日本との外交努力継続、共産主義の根絶、民生主義に基づく経済建設を決定した。前年12月に西安事件が起きたことから注目された中国共産党との関係に関しては同党との絶縁を決議した。日本との外交努力継続も決定されていたが国民政府はこの大会後に中央集権化を進め、地方の独立政権を従え、一部では官憲による排日運動も行われた。(中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議 フレッシュアイペディアより)
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日本共産党から見た中国共産党
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認め、なおかつ規定の入党費を納めた人が党員となることができる。戦前のコミンテルン時代は一国一共産党の原則により台湾や朝鮮も活動範囲としたこともあり、阪神教育事件でも分かるように戦後しばらくまで在日韓国・朝鮮人や中国大陸系華僑・台湾系華僑の党員も多数在籍していた。このうち、中国大陸系華僑は中国共産党に取り込まれ、朝鮮系は1955年(昭和30年)の朝鮮総聯結成と同時に多くが事実上移籍する形で離党。残った者も1966年(昭和41年)の第10回党大会で規約に「日本人であることが党員の資格」と明記されたのを受け、日本への帰化を選択した者以外は離党に追い込まれた。(日本共産党 フレッシュアイペディアより)