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中国共産党から見た宮本顕治
日中共産党の関係は、1950年代前半の日本側の党分裂時代でも維持され、中ソ対立でも日本共産党は当初中華人民共和国側を支持した。 しかし、1950年代に徳田球一は中国に亡命して野坂参三とともに北京機関を組織して所感派を立ち上げて中国に亡命しなかった宮本顕治ら国際派と対立した歴史もあり、インドネシアの9月30日事件後の1966年に訪中した宮本顕治は毛沢東と意見が対立し、その後は両党機関紙での激しい非難合戦が続いて、両党の関係は断絶した。日本側の親中派は「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)などを結党した。一方、日本社会党との関係は日本初の社会党出身の内閣総理大臣でもある初代党首の片山哲が中国建国10周年慶祝代表団団長として訪中し、社会党最後の党首で首相でもあった村山富市も度々中国の軍事パレードに招待されてるように、常に強い繋がりを維持していた。社会党は「野党外交」を展開できるメリットがあったともいえる。(中国共産党 フレッシュアイペディアより)
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中国共産党から見たパーベル・ミフ
日中戦争前に、上海に設立されたプロフィンテルンのアジア太平洋支部である太平洋労働組合書記局書記のイレール・ヌーランが逮捕されるヌーラン事件が起き、中国国民党により向忠発が銃殺され、共産党幹部の逮捕が続くと、李立三コースを批判していたコミンテルン極東局を中心とするパーベル・ミフ派の勢力が強くなった。共産党軍は中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年に瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。(中国共産党 フレッシュアイペディアより)
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中国共産党から見たモスクワ
1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークトが、中華民国の軍事顧問となった。1934年12月、日本人を中心に運営されていた満州国は、元白軍司令官のグリゴリー・セミョーノフの参加する反ソ組織の白系露人事務局を設立し、1935年3月に、ソ連より中東鉄道及びその付属地を買収した (北満鉄道讓渡協定)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため、日本は抗議し、1935年6月27日、日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結び、その協定の中でソ連の偵察所であった張家口の徳華洋行の妨害工作を企てた。それらに対し、ソ連は、1935年7月から8月にかけてモスクワで第7回コミンテルン世界大会を行い、コミンテルンは日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定めた。中国共産党代表団(ミフ派)は国共合作を呼びかける八・一宣言を行い、1936年の西安事件(西安事変)、1937年盧溝橋事件、中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。日中戦争の際は八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。また、蒋介石を通して、ソ連との不可侵条約締結などで、反共から容共化に変えさせた。(中国共産党 フレッシュアイペディアより)