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中島裕之から見た角中勝也
1月10日に契約更改を行い、このシーズンも残留することが決定。シーズンでは6月に入ってから調子が上がり、6月の月間MVPを獲得。12年目で初の受賞となった。故障で離脱した中村の代わりに4番を打つこともあった。首位打者を牽引していたが、8月に腰の状態が悪化、9月に左脇腹痛を発症してからは打率が下がり、ロッテの角中勝也と首位打者を競うことになる。ロッテとの最終戦では1打席は四球。2打席目も敬遠気味にボールを投げられ、その際2球わざと空振りした。最終戦では2打席凡退し、打率.311。1厘差で首位打者を逃した。オフには海外FA権を行使する。(中島裕之 フレッシュアイペディアより)
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中島裕之から見た森脇浩司
西武時代は遊撃手としてプレーし、守備では下半身と地肩を活かしたプレーを特徴とする。レギュラーに定着した頃は失策数も多かったが、ゴールデングラブ賞を受賞した2008年から守備練習を増やした結果徐々に堅実さが加わり、2010年にはリーグ2位の守備率を記録するなど例年守備率を向上させている。一方で遊撃手としては守備範囲が狭く、2010年には守備イニング1000以上の同ポジション中で両リーグワーストのUZR-19.4を記録し、2012年にも両リーグワーストのUZR-23.2を記録した。アスレチックス傘下のAAAサクラメント、AAミッドランドでは遊撃手だけでなく、三塁手や二塁手としても起用された他、2014年シーズンの終盤は一塁手も経験した。日本復帰後、守備を指導した森脇浩司監督は「まだまだ伸びしろがあるし、天性でやっている部分もある。理にかなうことが大事」と語っている。(中島裕之 フレッシュアイペディアより)
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中島裕之から見た山崎勝己
出生時は右肩が母体内で引っかかるなどの難産で、担当医からは「右肩に何らかの障害が残る可能性がある」と指摘され、乳児の頃から柔らかいゴム製のボールを半ば強制的に握らされていたという。伊丹市立桜台小学校時代は投手として幼馴染みの山崎勝己とバッテリーを組み、全国大会に出場。伊丹市立天王寺川中学校では宝塚シニアに所属し、高校進学時には県外の強豪校からもスカウトされ、地元の名門である報徳学園高校を山崎と共に受験。山崎は合格したものの、中島は合格に至らなかったため、進学校ながら野球では無名の兵庫県立伊丹北高校に進学。シニアでの厳しい練習から野球に嫌気が差していたこともあり、強豪校とは違う練習環境の中で力を伸ばしていった。後に本人は「報徳に入学していたら野球を続けていなかったと思う」と述べている。(中島裕之 フレッシュアイペディアより)
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中島裕之から見た金刃憲人
には、楽天との開幕3連戦(京セラドーム)で3番打者へ起用されたことを皮切りに、主に指名打者として一軍の公式戦に出場していた。しかし、7月9日の対ロッテ戦(京セラドーム)の試合前にスコアボード下の外野グラウンドでトレーナーとストレッチに臨んでいたところ、スコアボード下の外野5階席へスポンサーの看板を設置するために組まれていた鉄パイプが落下。グラウンドで跳ねた鉄パイプが右腰から首の辺りに当たったため、病院で検査を受けた。診断の結果打撲と診断されたことから、当日の試合ではベンチで待機。その後も一軍へ帯同していたが、実戦復帰は7月18日にZOZOマリンスタジアムで催された同カードでのスタメン出場まで持ち越された。7月28日の対楽天戦(ほっともっとフィールド神戸)では、7回裏に自身6年振りの満塁本塁打を金刃憲人から放った。結局、一軍公式戦には124試合へ出場。本塁打数は9本にとどまったものの、パ・リーグの最終規定打席へ到達したほか、チームトップ(リーグ7位)の打率.285を記録した。なお、このシーズンで3年契約を満了したが、中島は契約の付帯条件であった契約期間の延長オプションを行使。シーズン終了後の12月8日には、前年までの3年間と同じ推定年俸3億5,000万円という条件の1年契約で残留することが判明した。(中島裕之 フレッシュアイペディアより)
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