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秦真司から見た中日ドラゴンズ
10月6日、ヤクルトが迎えた対読売ジャイアンツ(巨人)最終戦(明治神宮野球場)は、巨人が勝ち同日に中日ドラゴンズが負ければ、巨人の優勝が決まる試合であった。7回裏に、リリーフの槙原寛己をヤクルトがとらえ、同点に追いつき、なお走者を2人残して秦が打席に立った。秦は右翼席中段に勝ち越し3ラン本塁打を放った。結局この試合に敗れた巨人は、中日と10月8日の最終戦で優勝をかけてぶつかることとなった(10.8決戦)。10月7日付の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞は、秦がうなだれる槙原を尻目にダイヤモンドを回るシーン、または打ったシーンの写真を掲載した。(秦真司 フレッシュアイペディアより)
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黒江透修から見た中日ドラゴンズ
同年8月、読売ジャイアンツに入団。165cmと小柄ながら堅実な守備で、土井正三とともにV9巨人の内野の要となった。当時の正遊撃手に広岡達郎がいたことから入団二年目までは出番がなかったもののにはイースタンリーグの首位打者を獲得。一軍でもに頭角をあらわし、首位を争う対中日戦で小川健太郎から三塁打を放って川上哲治監督から信頼を得る。同年の南海ホークスとの日本シリーズでは全6戦に先発出場。には129試合に出場して打率.278(14位)を残し、レギュラーに定着した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズも全6戦に先発出場、23打数7安打1打点と活躍。には遊撃手でベストナインに選出される。には全130試合に出場、自己最高の打率.293(6位)を記録。同年の阪急との日本シリーズ最終第6戦では本塁打を含む4安打を放ち、チーム日本一に貢献した。からは二塁手も兼ね、まで毎年ほぼフル出場、打率.270前後とコンスタントな成績を残す。しかしは河埜和正に遊撃手を明け渡すようになり、同年限りで現役引退。(黒江透修 フレッシュアイペディアより)
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野村克也から見た中日ドラゴンズ
の開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。1997年5月16日の阪神戦の勝利で監督として三原修、藤本定義、水原茂、別当薫に次いで史上5人目の両リーグ500勝監督になった。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一となる。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑一也(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也、真中満、稲葉、シーズン前に酷評したドゥエイン・ホージー、1996年に田畑と共にダイエーから移籍した佐藤真一、青柳進、同じく1996年に西武を戦力外になり移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博らがいる。は4位に終わり、この年のオフで勇退。最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532。(野村克也 フレッシュアイペディアより)
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尾頭橋駅から見た中日ドラゴンズ
当駅の事実上の前身は、ナゴヤ球場におけるプロ野球公式戦開催に伴う観客輸送を担うべく、日本貨物鉄道(JR貨物)が保有する東海道本線の貨物支線(通称「名古屋港線」)に臨時駅として開設したナゴヤ球場正門前駅である。中日ドラゴンズ主催試合の開催にあわせてJR東海が名古屋駅から同駅まで臨時列車を運行したが、常設駅昇格を望む住民からの声と、ナゴヤドームへの中日本拠地移転後の競馬ファンを中心とした集客を見込んで、同駅付近の東海道本線(金山駅 - 名古屋駅間)に常設駅の設置を決定。これを受け、当駅開業前年の最後の主催試合(中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツの「10.8決戦」)をもって、同駅は廃止となった。(尾頭橋駅 フレッシュアイペディアより)
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桑原将志から見た中日ドラゴンズ
には、イースタン・リーグ公式戦89試合に出場。最終規定打席へ到達するとともに、リーグ23位の打率.255、チームトップ(リーグ10位)の13盗塁、2本塁打、18打点を記録した。7月19日にHARD OFF ECOスタジアム新潟で開かれたフレッシュオールスターゲームには、同リーグ選抜の「8番・中堅手」としてフル出場を果たすとともに、3打数2安打という成績を残している。さらに、10月1日の対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)7回表から、二塁手として一軍公式戦にデビュー。8回裏に迎えた初打席で、山井大介から一軍初安打を記録した。(桑原将志 フレッシュアイペディアより)
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矢野燿大から見た中日ドラゴンズ
1990年のNPBドラフト会議では、読売ジャイアンツと中日ドラゴンズから2位で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、中日が独占交渉権を獲得したため、4位で指名された東北福祉大学での同級生・吉田太と共に入団。この会議では、同大学から矢野・吉田以外にも、内野手の宮川一彦が横浜大洋ホエールズ、投手の小坂勝仁がヤクルトスワローズからそれぞれ指名され、同一大学・学年から4人のプロ野球選手が誕生している。もっとも、矢野は当時、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった地元・阪神タイガースや読売ジャイアンツへの入団を希望。それだけに、2歳年上の中村武志がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日から指名されたことには、不安を感じていたという。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『スポーツにぴたっと。』で語っている。(矢野燿大 フレッシュアイペディアより)