390件中 11 - 20件表示
  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た中部日本放送

    1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。巨人に対しては闘志をむき出しにし、1972・1973年と勝ち越してV9巨人を苦しめた。この時期、中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た板東英二

    1955年、優勝した巨人と15ゲーム差の2位。1956年?1958年、優勝した巨人・2位の大阪と僅差で3年連続の3位。1958年オフ、この年の選抜高校野球大会で83奪三振で奪三振の大会記録を作った板東英二が入団。1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。この年は、優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位。1960年2月に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。優勝した大洋と9ゲーム差の5位。1961年は濃人渉監督が就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。1962年、日本プロ野球で初めて、元大リーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーを入団させるが3位。1963年は、優勝した巨人と2.5ゲーム差の2位。翌1964年は一転、最下位に終わる。1965年?1967年は、西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢監督が途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰。)。1968年の杉下監督を挟み、1969年から元巨人の水原茂監督が就任するが4位→5位→2位と今ひとつ伸びなかった。しかし水原監督下で育った選手が1972年以降大きく開花し、1974年の優勝に繋がっていく。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見たエンジェルベルト・ソト

    2011年は交流戦ではセ・リーグで唯一の勝ち越しチームとなり、リーグ首位にも立つなど好調であったが、高橋聡文、中田賢一、山本昌、トニ・ブランコ、谷繁元信、井端弘和ら主力選手の故障が相次いだ事に加え、統一球の影響などで前年MVPの和田一浩を中心に打撃陣が絶不調に陥り、7月に大きく失速。8月3日には首位ヤクルトに10ゲーム差が付き、8月10日には借金6で5位にまで転落した。しかしリーグトップの投手陣の働きに加え、中継ぎから先発に転向したエンジェルベルト・ソトの活躍などで、巨人、阪神、広島との2位争いに踏み止まり、9月になると谷繁、ブランコ、井端の復帰や大島洋平、平田良介ら若手の成長もあり、徐々に首位ヤクルトとの差を縮めていく。その最中、任期満了による落合監督の同年シーズン限りでの退任とCBC野球解説者・高木守道の次期監督就任が9月22日に、10月6日にはコーチ11人の退団が発表された。しかし発表は悪影響とはならず、9月を15勝6敗3引分け、10月を11勝5敗2引分けと勝利を重ね、10月6日に首位に浮上。10月18日に142試合目にして優勝し球団史上初となるリーグ連覇を達成した。チーム打率(.228)、得点数(419得点)は共にリーグワーストであり、両部門がワーストでのリーグ優勝はプロ野球史上初のことである。クライマックスシリーズでは、ファーストステージを勝ち上がったヤクルトとファイナルステージを戦い、4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。ソフトバンクとの日本シリーズでは、第6戦までお互いの本拠地で敗戦するという展開となったが、相手の本拠地での第7戦に敗れ、3勝4敗で日本一を逃した。シリーズに入っても打線は低調(チーム打率.155)で、日本シリーズにおける歴代ワースト記録となった。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た高橋聡文

    この年の序盤は先発投手陣が不調だったが、浅尾拓也や高橋聡文ら中継ぎ投手陣が活躍した。野手では主力の井端弘和がシーズン中盤から故障で長期離脱したこともあり、一時は首位巨人に最大8ゲーム差をつけられながらも、和田一浩や森野将彦らが引っ張り、井端に代わってレギュラーに定着した堂上直倫ら若手の台頭もあって後半戦から追い上げた。優勝マジックを1とした10月1日、マジック対象の阪神が広島に敗れたことから4年ぶり8度目のリーグ優勝となり、巨人のリーグ4連覇を阻止した。クライマックスシリーズでは、3位から勝ち上がった巨人と第2ステージを戦い4勝1敗として、3年ぶりとなる日本シリーズ出場を決めた。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、第6戦は延長15回、シリーズ歴代最長時間試合となる5時間43分の末、2-2で引き分け。第7戦は2試合連続の延長戦となったが、ロッテに逆転を喫し7-8で敗れ、2勝4敗1分で日本一を逃している。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た立浪和義

    1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。新人の近藤真一が、8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発ノーヒットノーランを達成。5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に、最終的には2位。シーズンオフに大島康徳と平野謙を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た大島康徳

    1981年から近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わるも、翌1982年には星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝を決める。結果としては2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一が引退。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た山崎武司

    1996年、星野が監督に復帰し、ナゴヤ球場最終シーズンとなった。韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えとして期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかって不振に終わる。この年は長嶋巨人による「メークドラマ」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点で(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。そして10月6日、ナゴヤ球場で行われる最後の公式戦。この試合を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフというところまでこぎつけるが、3試合目に2-5で敗れ去り優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜打線”の愛称も一層の定着を見せた。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た岩瀬仁紀

    1998年、前半戦までは勝率5割付近の成績だったが、後半戦、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。野口茂樹が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向した落合英二が最優秀中継ぎ投手、ルーキー川上憲伸が新人王を獲得した。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た中田賢一

    2005年は横浜よりタイロン・ウッズが加入し、ドラフトでは中田賢一をはじめ即戦力となりうる新人を獲得。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど滑り出しは好調だったが、この年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には優勝した阪神と10ゲーム差の2位に終わった。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

  • 中日ドラゴンズ

    中日ドラゴンズから見た千葉ロッテマリーンズ

    1949年シーズンオフ、中部日本新聞社のライバル会社である毎日新聞社が設立した新球団のプロ野球参入に、中日を筆頭に同じく毎日のライバルである読売新聞社を親会社に持つ読売ジャイアンツなどが猛反発。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・大阪タイガース・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・毎日オリオンズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立した。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

390件中 11 - 20件表示

「中日ドラゴンズ」のニューストピックワード