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    中日ドラゴンズから見たデサント

    1968年シーズン途中(5月16日) - 終了 スカーレット(以下、赤)と青を基調としたスタイル。帽子…青に赤の天ボタン・ツバ、金の龍のマークと赤の中日マークが入る。シャツ・パンツはニット製、また、シャツはノースリーブスタイル(どちらも日本プロ野球史上初。製作はデサント)。アンダーシャツ…赤。線(首周り・ベルトループ・パンツサイド)…赤。胸マーク・胸番号・背番号…赤・青縁。ベルト…青。ストッキング…赤に、太めの青ラインが1本入る。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見たテレビ東京

    同じ中日資本の三重テレビ放送とテレビ愛知も開局当初はホームゲームの中継が出来なかった。しかし三重テレビでは東海テレビが放送できない試合を三重テレビで放送することにより中継開始、また、テレビ愛知でもナゴヤドーム主催試合を2001年よりスタートし(対ヤクルト戦)現在は年数試合が放送されており、2007年には53年ぶりの日本一を達成した日本シリーズ第5戦(制作はナゴヤドームの巨人戦を含めてキー局のテレビ東京)を民放初の完全中継を行った(日本シリーズでTXN系列各局が放映権を得るパターンは、パシフィック・リーグのうち比較的多くの試合を放送する千葉ロッテマリーンズ(テレビ東京)、北海道日本ハムファイターズ(テレビ北海道)、福岡ソフトバンクホークス(TVQ九州)が進出した場合に推薦される機会が多く、セ・リーグ側で推薦された実績があるのは現段階で中日のみである)。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た中日新聞社

    1942年、戦時下の新聞統廃合令でこの球団の親会社である新愛知新聞社と1940年まで活動した名古屋金鯱軍の親会社である名古屋新聞社が統合し、中部日本新聞社が発足。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。また、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資して1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、1944年2月5日に球団を理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)の傘下に入れ、選手を同工業に就職させた。球団名を産業軍(さんぎょうぐん)に改称し、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、神風特攻隊で戦死した石丸進一をはじめ、戦禍に散った。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た中部電力

    1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。巨人に対しては闘志をむき出しにし、1972・1973年と勝ち越してV9巨人を苦しめた。この時期、中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た三重テレビ放送

    豊橋 - 豊橋市民球場(ここの球場で開催されている試合は東海ラジオの主催のため、テレビ中継は関連する東海テレビや三重テレビで放送されている)中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見たスタジオジブリ

    ガブリ - 2006年に球団創設70周年を記念して設立された球団公式ファンクラブのマスコット。1991年、スタジオジブリの宮崎駿が同僚で中日ファンの鈴木敏夫のために、当時の四番打者・落合博満と竜をモチーフにデザインした。後にファンクラブのマスコットとして提供され、鈴木には名誉会員1号の称号が贈られた。名前は公募でつけられた。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た名古屋鉄道

    1950年5月25日、大リーグに倣い球団と球場を同一経営することとなり、中日球場を経営していた株式会社中日スタヂアムに合併され、商号が名古屋野球株式会社となり、この年は8球団中2位に終わる。1951年、この年西日本パイレーツが、パ・リーグの西鉄クリッパーズに吸収合併されたことでセ・リーグは、7球団体制になる。1月25日、名古屋野球株式会社から株式会社名古屋野球倶楽部が分離。2月6日より名古屋鉄道(名鉄)が球団経営に参加し、球団名も名古屋ドラゴンズ(なごやドラゴンズ)に改称。名鉄と中日新聞が隔年で経営することとなり、この年は名鉄が経営を担当。8月19日に試合中の火災で全焼した中日球場(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行われた)は、オフに鉄筋コンクリートで再建された。この年は、優勝した巨人に大差をつけられての2位。翌1952年は、巨人・大阪との優勝争いの末、僅差で3位に終わる。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た島野育夫

    1995年、前年度の優勝をヤクルトと最後まで争っての2位という成績を評価され高木監督が続投。しかしチームは不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫二軍監督が代行を務めた。結局、このシーズンは5位に終わる。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た平野謙 (野球)

    1981年から近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わるも、翌1982年には星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝を決める。結果としては2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一が引退。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た佐々木恭介

    2003年、一度は入団契約を交わしながらも突如翻意し、ボストン・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。チーム最多勝は前年オフに移籍してきた平井正史(12勝)で、川上憲伸と朝倉健太と前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけであった。7月5日の東京ドームでの対巨人戦で立浪和義が2000本安打達成。打線は4番打者が流動的で固定出来なかった。5位に低迷していた9月9日に山田監督の休養(事実上の解任)を発表し、佐々木恭介ヘッドコーチが監督代行となった。最終的には、優勝した阪神と14.5ゲーム差の2位で終わる。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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