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    中日ドラゴンズから見た赤嶺昌志

    1942年、戦時下の新聞統廃合令でこの球団の親会社である新愛知新聞社と1940年まで活動した名古屋金鯱軍の親会社である名古屋新聞社が統合し、中部日本新聞社が発足。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。また、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資して1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、1944年2月5日に球団を理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)の傘下に入れ、選手を同工業に就職させた。球団名を産業軍(さんぎょうぐん)に改称し、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、神風特攻隊で戦死した石丸進一をはじめ、戦禍に散った。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た杉浦清

    1945年11月、大島が球団スポンサーに再度就任し、1946年2月1日のリーグ戦再開に伴って中部日本新聞社が経営に復帰。株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、球団名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。球団愛称は中部とした。同年、現役遊撃手の杉浦清が監督に就任し、現在に至るまで球団史上唯一の選手兼任監督となっている。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た綱島理友

    参考書籍:「ベースボールマガジン」1998年夏季号(1998年、ベースボール・マガジン社発行)、「プロ野球ユニフォーム物語」(2005年、ベースボール・マガジン社発行。文:綱島理友、絵:綿谷寛。書籍コード:ISBN 4583038070)中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た郭源治

    1981年から近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わるも、翌1982年には星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝を決める。結果としては2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一が引退。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見たアロンゾ・パウエル

    1994年、シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられたが、9月20日からの9連勝を始めとする猛追を見せて首位の巨人に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合は巨人に落合博満、松井秀喜の本塁打に加えて当時の3本柱の槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄のリレーでかわされ、3-6で敗戦。優勝を逃した。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率と、多くの投打のタイトルを獲得した。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た正力松太郎

    横浜に大リーグ選抜軍が来日した1934年、読売新聞社が大日本東京野球倶楽部を日本のプロ野球球団として結成され、それから遅れる事2年後の1936年1月15日、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が誕生した。河野安通志を総監督 (GM) に迎え、池田豊が監督に就任。明治大学の中根之、アメリカ人で捕手のバッキー・ハリス、内野の名手・芳賀直一、日系アメリカ人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。上述のメジャーリーグ選抜軍来日時に、読売新聞社社長・正力松太郎が新愛知新聞社の田中斎に名古屋でのプロ野球球団結成の働きかけを行なったのが球団誕生の契機。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。当初、読売の正力松太郎が推し進めていた日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)とは別個に、独自リーグの大日本野球連盟を組織して各地に同様の球団を4球団結成し、配下には3Aに相当する下部組織を作るなどの、当時としては先進的な構想を抱いていたが頓挫。結局、上記の既存の2球団が正力が設立した日本職業野球連盟に加盟することとなった。当初の商号は名古屋軍が株式会社大日本野球連盟名古屋協会、大東京軍が株式会社大日本野球連盟東京協会であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。2月5日には名古屋軍の他、東京巨人軍、大阪タイガース、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7球団で職業野球団が結成され、日本職業野球連盟も結成されている。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た濃人渉

    1955年、優勝した巨人と15ゲーム差の2位。1956年?1958年、優勝した巨人・2位の大阪と僅差で3年連続の3位。1958年オフ、この年の選抜高校野球大会で83奪三振で奪三振の大会記録を作った板東英二が入団。1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。この年は、優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位。1960年2月に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。優勝した大洋と9ゲーム差の5位。1961年は濃人渉監督が就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。1962年、日本プロ野球で初めて、元大リーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーを入団させるが3位。1963年は、優勝した巨人と2.5ゲーム差の2位。翌1964年は一転、最下位に終わる。1965年?1967年は、西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢監督が途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰。)。1968年の杉下監督を挟み、1969年から元巨人の水原茂監督が就任するが4位→5位→2位と今ひとつ伸びなかった。しかし水原監督下で育った選手が1972年以降大きく開花し、1974年の優勝に繋がっていく。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た田尾安志田尾 安志

    1981年から近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わるも、翌1982年には星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝を決める。結果としては2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一が引退。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た小西得郎

    '39年シーズン途中、小西得郎が監督就任した頃より使用 創立時に近いデザイン。帽子…従前と同じ。アンダーシャツ・ベルト・ストッキング…創立時と同じ。胸マーク…創立時とほぼ同じ(配色は、黒に白・赤縁取り)。背番号…黒。左袖…赤に黒縁取りで新愛知社章。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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    中日ドラゴンズから見た徳武定祐

    1995年、前年度の優勝をヤクルトと最後まで争っての2位という成績を評価され高木監督が続投。しかしチームは不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫二軍監督が代行を務めた。結局、このシーズンは5位に終わる。中日ドラゴンズ フレッシュアイペディアより)

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